このアンケー回答は「2008(平成20)年 槻友会 創立40周年記念 第20回総会 別添資料」として作成されたもので、 初期から第13期つまり初代吉川昇校長の在任期間(20年)のOBを対象とした、アンケート第1集である。 ちなみに、私は第13期卒業生で、吉川校長による最後の卒業式辞を聞いている。 なお、アンケートは設問ごとにまとめられているが、私の回答はB5判冊子の4ページ分となっている。
(2) 入学の動機理由、受験準備:
小学6年3学期の途中で茨木に来た。当時、高槻高には義姉の親戚(9期)が在籍しており、私も受験することになったようだ。
(3) 在学中の住まい:大阪府/茨木市
(4) 主な通学方法:国鉄
(5) 通学、マナー、校則:
私は子ども心に保護者(長兄夫婦)に余計な負担をかけてはいけないと思っていた。
"普通の学生服でも可"に救われ、冬季の外套・マフラー・手袋の原則禁止もありがたかった。
坊主頭も然り、これまでどおりでよかったからだ。
車内起立は後々まで役立っている。今でも短時間の場合、混む混まないに関わらず立っていることが多い。
駆け足は仲間といっしょで、走ったり歩いたりと、やや優柔不断であり、また「金曜日はカバンの重たい日」(1958・4・11)でもあった(「けん語録―青春編」十六歳)。
(6) 通学路、地元との関係:
いっしょに帰る友人によって、寄り道をしたりする。商店街に、友人の店(おもちゃ屋)があったり、国道(府道?)沿いにできたウドン屋には若い奥さんがいて、
テニス部の帰りに仲間とよく寄ったものである。
新聞部では「槻高生をどう見る住宅・商店街の人々にその評判を聞く」という特集で、商店街などを取材してまわった(昭和33年6月3日付第65号)。
日記に「4/25…広告集めをする/4/26…われわれ高Iの部員で相談して考えた取材、『槻高生をどう思うか?』で、方々歩きまわる。
《楽しかった》前程悪くない評判に気をよくする」と記していた。
(7) 校舎・施設:
古い木造校舎は、日本軍隊のものだったか、米軍の宿舎だったか、そんな話を聞いたことがあるが、たしかではない。
天井は高かったが、照明はなかったように思う。
高3の最後に、短時日入った三階建て新校舎もそうだった。なぜか不思議でならなかったが、暗いという印象は持たなかった。
選択授業で登校しない日や、早く下校したからかもしれない。
わが校は男所帯であるから、殺風景であったことは否めない。私の在学中、"女性"は用務員の奥さんとその飼い犬だけであった。
その割に、光華学園の生徒などとの"交流"が盛んだったのは、頭のいい、ええしのボンボンが多かったからか。
(8) 吉川校長(1886-1973)の思い出:
週に1回だけだったが、英語の担当で教科書がなく、苦労した生徒も多いのではないか。
このころ英語が好きだった私には楽しかった。「BOY(少年)」は「ボーイ」ではなく「ボイ」と発音するんだよ、といつも念を押されていた。
テストは、わら半紙を細く切った"紙切れ"に、1問か2問だったように思う。
できが良いと、薄いブルーのインクで「splendidly(申し分ない)」としり上がりに記されているのを何回かもらった(ただし、私の英語力は"受験英語"がピークで終わった)。
⇒訂正「splendidly」は記憶違いで、「Excellent」であった。(081230)
朝礼や卒業式の訓辞は、ドイツ的というのか、少年だった私には役に立つものが多かった。
私たちの卒業式を最後に教壇を去られた。そのときの訓辞が印象に残っており、「槻友会報」の原稿を依頼されたとき、
私は迷わず、それに触れたのだった(No.48「吉川初代校長の訓示の意図」)。
余談だが、設立時の顧問に安岡正篤(1898-1983陽明学者。吉田茂ら首相たちの後ろ盾など政官界や軍部に影響を与えた)の名があるのを知ったのは、
かなり前のことである。それまで感じていた"校風"とちょっと相容れない印象を持つ私は、ある会合でお目にかかった吉川校長のお孫さん秋山 哲氏(経済学博士)にそのことを話すと、
「祖父との関係は、どうだったのだろうか」とのことであった。もう一つ、吉川校長は「私には厳しかったが、子ども(ひ孫)には優しかった」そうである。
ところで、この訓辞について、高槻中学高校創立50周年/槻友会第11回総会記念「吉川 昇先生遺訓集」(1990・10・28発行) を改めてひも解いて見た。
拙稿で書き写した訓辞のお終いの「目前の利にふりまわされず…自分の一生を送ることだ」の前に空白があり、
「今話したことの参考までに/安岡正篤氏の話」という2行を見つけたが、話の内容は不明である
(私自身、安岡の人となりを知ったのは"結婚詐欺の被害者"としてではなく、あるノンフィクションの原稿を書いていた30代半ばのことである)。
それ以前のものを通覧すると、吉川校長は敗戦後の"民主主義"に違和感をもち、毎回のように"真面目で、強く、
上品な"日本人になるようにと教育方針を論じておられたようだ。
ともあれ、一人の人間としての"信念"と、校長(教育者)として"葛藤"とが綯い混ざってのことだったのかと、
18歳の私が受けた印象を今にして思うのだが、真相は分らない。
(9) 担任教員、好きな科目、思い出に残る先生や授業:
*(中一)本田義壽先生(国語)……百人一首で、恋の歌43首と教えられ、何となく希望がわいてきたことを覚えている、なぜだか分らないが。
この"ツーペン"こと若いお坊さん先生は、「思春期」という言葉も教えてくれた。少し大人になったような気がした。
その当時知っていたのは『少年期』(波多野勤子・光文社1951)だけだったからだ。
余談……理科の実験室はまったくオソマツなものだった。ところが、成績の良い連中の多くは理科系に進学している。
なぜだろうか、と不思議に思ったものである。
(13) 友との思い出、生徒の活躍・出来事:
当初"標準語"大阪弁には悩まされた。静岡言葉のゆえに"静弁"とからかわれ、また名前もエノケンの連想から「ハシケン」(橋健)とか「シズケン」(静健)などといわれた。
とはいえ、在学中を含め、わずか7年しかいなかった大阪(茨木)を離れて久しいが、ときたま訪れると大阪の友人たちが歓迎?してくれるのはうれしい。……
(14) クラブ・同好会、生徒会の思い出:
テニス部…中2〜高2(顧問:・・・・)/新聞部…中3〜高3(顧問:桜田先生)
(15) 行事の思い出:
*運動会……高1は、いちばん余裕のある時期である。2学期冒頭、わが4組・坂本(社会)クラスでは級長に有力候補の"穏健派"ではなく"腕力派"を選んでいた。
彼の指揮のもと体育祭の準備にも時間をかけた。
その結果を伝えるスナップ写真には、女装姿もあれば、吉川校長の手を引っ張る"借物競争"も収めている。
仮装行列の1位は、わが4組の「坂本部屋の若秩父」で、付人まで配した本格派だった。
このときの「学園新聞」は写真の真ん中上段にタテ書きで「負ケラレマセン 勝ツマデハ」などと、どこかで聞いたような見出しをつけていた。
最後の3年("ガサ組")では、ついに4階建てのヤグラ(高さ約8メートル)を組んでしまっただけでなく、
「わが高IIIの3組は第14回体育祭において総合と仮装行列に優勝」したのだった。
*マラソン……中1−38位、中2−7位、中3−1位(11.3キロ)、高1−3位(13.4キロ)、高2−50位。中3〜高1が全盛期。
中3のとき、陸上部の上田克典君と校門までデッドヒートを展開し、僅差で1位となった。
*修学旅行……中学3年は「卒業旅行」といったか、10月に南紀州(3泊4日)へ行った。
いつも記録を残すが、……こうもある。「先生の方は、旅館へ入るなり酒を飲み始める。まるで個人で来たようなものだ。
『二百人もの生徒を小人数の先生で預かるのだから、迷惑をかけないように』と云われても、これでは迷惑のかけようがない」。
高校3年では4月14日から一週間、瀬戸内海をわたり別府に着き、その後バスに揺られて阿蘇や水前寺公園、雲仙に渡って楽しく過ごし、
汽車で南下して鹿児島、さらに青島に行き、20日の朝大阪に帰って来た。昼間の観光地めぐりばかりか、先生に早く寝ろと叱られながら、
夜のダベリ時間が楽しかった。その模様は後掲「生きるべく道へ」に"活写"したつもりである。
(16) 家庭での勉強、受験勉強、進路選択の思い出:
*家庭での勉強……進学校であるから、勉強しなければという気持ちはあり、それなりに目標を立てたりしたが、
総体的に計画倒れであった。むしろ机の上のラジオが毎夜伝える落語や漫才に聞き入っていた。
…ココから元原稿より復活…いろんな名人や新人の噺を聞いたが、「ぼん、あそこの幼稚園に行くかい?」「何ていうの?」
「たそがれ幼稚園…」「やだよ、そんなの」なんぞという新作が好きだった。
…さらに、追加…「暑さを避け、寒さを避けて呑むから、酒というんだよ」。未成年だったが、なるほどと納得した(以後、お気に入りの言葉となっている)。(081230)
*受験勉強……当初、3科目で受けられた東京外語大(ロシア語科)のみを志望したが2次試験で落ち、次の年は数学が加えられたので、3科目の私立大に枠を広げた。
浪人生活では予備校に行かず、友人の通う学校で何回か公開模試を受けた。家庭内にさまざまな動きがあり、まともな勉強もせず、
夏には創作「生きるべく道へ」の原稿を書いたりして過ごしていた。
ともあれ、一浪して早稲田大学(第一文学部露文学専修)に合格したことはあらゆる面でプラスとなった。
(17) 中学高校時代の関心事、打ち込んでいたこと:
テニス部(軟式)に属していたのは中学2年〜高2の間であろうか。校内外の試合は主にダブルスであったが、
あまり勝ったことはなかった。相棒には申し訳ないが、"勝負"へのこだわりに欠けていたというか、あるいは必死になって勝ちに拘る相手を見て、
戦意喪失するという技術以前の問題もあった。しかし、クラブのよさは中学高校と先輩が多く"大人"の話が聞けたり、
反面教師にしたりと人生勉強にはなった。
もう一つ、新聞部には中学3年2学期から、高3初期まで属していた。取材では茨木高校(中3)や島上高校(高1)を訪問したり、
原稿を書いたり馴れない組版など、見よう見まねでやっていた。年に何回も発行されなかったが、学校から少し離れた草深い中をたどって印刷所に行ったことを思い出す。
まるで"地下出版"のような雰囲気であった。
退部した後も後輩から"論説"を書いてくれと言われたこともある(「認められる矛盾」第74号、昭和35年6月6日付)。
このころは新聞記者志望であり、さして苦にはならなかった。新聞部での経験は、文章を含めよい修業になったと思う。
(18) 校風、伝統、伝えたいこと:
何年か前に在校生の制作による配信映像で見た中学の体育会風景は、太った生徒たちがあまり格好よくない姿で走っているところなど、
いささかがっかりした……。
"名門"であるためには大学合格者を多く出すこと以上に、社会人としての常識や品位も必要ではないかと、愚考する次第である。