1975(昭和50)年5月11日。朝からよい天気であったが、前夜から季節社ビル(梶山家、市谷)に泊まっていた私は、 香港にいる美那江夫人からの電話で、あわただしい一日を迎えることになった。
本棚の上に「積乱雲」の原稿が… |
主亡き書斎 文机は北側を向く |
東側は朝日がまぶしい |
本棚に自作品と月刊「噂」の合本 |
東側をもう一度 |
五月十一日<東京> 昨夜は、ついに連絡がなかった。これは少し危ないなと思った私は、
コードを一杯に引っ張った受話器を枕元において、まんじりともしなかったが、それでも明け方少しは寝たのか、
いきなり電話の音で起こされた。時計を見ると、七時に数分前である。
現地の交換手が、何か英語で問いかけるが、音声が悪く、訳もわからず、何度か性急に、イエスと答えると、
やがて、奥さんの声に代った。
「一時間半……、前に死んだの!」
と。まさかと思って問い返したが、答えは同じだった。
事実を変えることができないならば、その直面した現実を、この素っ気ない言葉でなければ、
何びとも涙なしには伝えることができなかっただろうと思うと、グッと胸がつまった。
「皆さんがよくやってくださいました」と、そばにいる何人かの人々にも、
取り乱さず頭を下げている奥さんの姿が目に浮かんで来るが、
「わかりました。気をしっかり持って下さい」としか、私には言えない。
清々しい朝の空気を、一瞬にしてかき乱した、それは、悲しくも、あわただしい、長い長い一日の始まりであった。
直ぐに知らせるべく、身内の人たちに、どのような言葉でもってしたか、私はもう思い出せない
(拙稿「ドキュメント 梶山季之の死」より)。
応接間の朝 ツツジの色あざやか |
早々とお花が届けられる |
中央にかかるレンブラントの「自画像」 |
日曜日であった。やがて、ニュースで梶山の死を知った多くの編集者や知人が駆けつけてこられた。
しかし、来ては見たものの、誰もどうすることもできない……。
一方、私はその前、"主亡きその瞬間"を記録しておかなければと、とっさに思い、3階の書斎から2階の応接間、
同じく茶の間、そして2万点近くの書籍・雑誌を納める1階書庫の情景など10数枚をカメラに収めた。
ネガはそのまま梶山家に保管されていた。写したのは8時ごろ……と思っていたが、このたびプリントした写真をみると、
梶山の書斎の時計が、9時半過ぎをさしていることがわかった。"とっさ"には、ずいぶん時間がかかっていたことになる。
なお、多くのお花が届けられたが、柴田錬三郎氏(葬儀委員長)によって、すべての名札が外された。
故人は分け隔てのない人だから、という理由であった。
一階の書庫 角の本棚にも自作品が並ぶ |
茶の間 何を見ているのかアロと、その朝の新聞 |
もう一つ、まったく忘れていたことがある。2階応接間での告別式および出棺に際して、S社が撮影した多くの写真の中に、
私の姿はどこにも見当たらない。こんな大事なときに、席をはずすわけはないのに。なぜだろうと思いつつ、
写真の束を調べていると、ホンコンで仮通夜を行った時のものなど、私が写した十数本のネガが出てきた。
とうぜん、私は一枚も写っていない。すなわち"その瞬間"からホンコン、市谷と、ずっと写真を撮っていたからだが、
それは私が梶山家にも、ホンコンにも"いなかった"ことを証明する"物的証拠"でしかなかった。
それはさておき、29年も前のネガの劣化は止むを得ないが、その当時を偲ぶには十分であると思い、
"本邦初公開"として、ここに掲出した次第である。