けん語録−青春編−(その3)

目次
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昨年3回にわたり掲載した、最近10年の言葉「けん語録」の"青春編"として、
15歳から24歳まで書き綴ったものをお送りします。
年齢相応の感慨もあれば、少しも進歩していないという印象も否めません。
ご笑覧ください(元は数年前、成人式を迎える娘にプレゼントしたものです)。
2003・1月橋本健午

1961年(昭和36年) 十九歳−1
私には 大人たちや友だちのように
飲みたいという 誘惑が起こらないのだ(英文日記より1・5)
良識と 人格のある 人間になる ことはむずかしい(同1・10)
私は つまらないことに 腹を立てないように 決心している
というのは 私の神経が弱いからだ(同2・3)
私は日曜を 他の週日よりも 憎む(同2・5)
自由になる……それは私が やくざな人間になることも
ふしだらな生活をすることも 意味するものではない(同2・5)
彼女の運命は 彼女の知らないうちに 決っていた(同3・1)
成功は 私の手中にはない
だからこそ 魅力を感ずるのだ(同、大学入試について3・8)
みだらな行為は それが神聖なもの でないからではなく
不健康であるから 禁じられなければ ならない(同3・12)
私自身の怠惰を 白状するのは残念である(同4・21)
彼女が手紙を くれたからといって
それに付け込もう などとは思わない(ノオト「浪人時代」より4・15)
人間は限界状況に 立っているとき ひどく緊張して
そして 非常に頭がさえ 能率的になる(同4・22)
彼は反左翼だから 右翼だそうだが
私は少しも いいとは思わない(同4・25、ある先輩について)
私は 一つの方針を 立てておかないと
どう対処していいか 分らないことがある(同5・7)
自己喪失 とでもいおうか 私はどうしていいのか 分らなくなった
私は生きる価値が あるのだろうか(同5・7)
二度も自己の体をいため かつサディズム的
夢想にふけり 最も忌まわしい 事態に至る(同5・15)
私は本来の 私自身でありたい 本来の私とは何か?
私は今まで 本来の私であったことも
私自身の私 であったこともなかった(同5・15)
私はもう少し 単純な人間に ならなければならない(同5・15)
私は決して そういう成功はしなくても
己を人格者たるものから 引きずり下ろしたくはない(同5・15)
別にテレビを 見ないからといって
現代に おいてきぼりをされるわけでもなく
また見たからといって
特別かしこくなる という性質のものでもない(同5・15)
注意しなければならないことは
私生活において 己の心を乱さないことである(同5・15)
あまり産業界には興味がなく 資本主義をヨウ護する気は毛頭ないので
そういう機構に組みすることは恥だし やりたくないことである(同5・15)
私は遠回しに 表現することが好きだ 露骨なのが 適当でないからであり
またその方が 面白みが出てくるからである(同5・20)
自分の 相手に伝えたいことを さして苦痛も感ぜずに 表現できればよい
つまり説得力が 必要である(同5・26)
私は元来 ペシミストで 物事を少し 重大視する傾向がある(同5・28)
彼らが 単に私より上に 位置していたり
先に生まれているからといって 無条件に 承認するつもりはない(同5・29)
私のその間の 人間形成に 決定的であったのは
何といっても この両親と離れていた ということである(同5・29)


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