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「まだまだコラム」 2008年5月上旬号

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「言葉…」
 NHK総合の報道番組「クローズアップ現代」でキャスターを15年も続けている国谷裕子のインタビュー記事で、 これぞと膝を打ちたくなるような言葉が紹介されている(東京08・04・25夕刊「あの人に迫る」…「話の間読めれば 人が見えてくる」)。
 95歳の現役映画監督である新藤兼人にインタビューしたとき、「僕はベテランになっちゃいけないと思ってる。 ベテランになると、経験を積み重ねてどこまでできるか、可能かどうか見極めることができてしまう。 早くから限界を感じてしまうことになる。僕は何事に関しても限界をも設けたくない。 だから、ベテランになっちゃいけないんだ」と、語ったそうだ。この言葉を、彼女は自分にも言い聞かせているという。
 95歳で矍鑠としているだけでも驚異だが、体力仕事ともいえる映画を撮り続けながら、謙虚であり、真摯でもある。
 はるかに若い者として比べるのも申し訳ないが、私自身は10年以上前から、もっと簡単に「いつまでも素人であり続けること」という言葉を使っている。
 あるとき、中学生だったかの息子に、「どういう意味か」と聞かれた。新藤監督のような説明はしなかったが、 取材や原稿を書くとき、常に初心で立ち向かうこと、慢心してはいけないからと言った覚えがある。
 別の観点からすれば、私の書きたいと思うテーマは、あまり人がやらないものが多く、またそれ以上に私自身、 いつもゼロからの挑戦という気持ちで、謙虚に、そして様々な角度からアプローチするところに、 良くも悪くも"私らしさ"を出ていればよいのではないか、と思うからである。
 反対に避けている言葉は"プロ"である。他人が言うのは仕方がないが、自分で「私はプロだから」などとは決して口には出さない。
 評価は他人がするものであって、力もなく、さしたる実績もないのに自ら威張ってもどうにもならない。 あるいは、なぜ世の中の人は俺を評価しないのかとか、さる高名な作家の息子のように「なぜ原稿依頼が来ないのか」と、 嘆いたところで始まらない。いくつになっても、"ゴール"は見えないのである。

「しつけ…」
 しばらく前、新聞の家庭欄だったか、若い父親が二歳の子供に、他家に行った場合に脱いだ靴をそろえるということを教え、 その子は実際にそうしているという話が出ていた。私は、うーん、若い人の中にも、賢明な人がいるものだと、ひとり納得したことを覚えている。
 それからしばらくして、カミさんが借りてきた野村克也・東北楽天ゴールデンイーグルス監督『巨人軍論―組織とは、人間とは、伝統とは』 (角川ONEテーマ(新書)2006・02)を読んでいて、やはりそうあるべきだと思ったものだ(「人間教育こそが九連覇の源だった」の項)。
 川上巨人が9連覇を果たしたことについて、「あれだけのメンバーがいれば、誰が監督をやっても勝てる」という批判ばかりで、 もっと根本的なことを見なければという野村監督の説明はこうだ。
 王、長嶋という強力なバッターをはじめ、戦力的に他を圧倒していたのは事実だが、それだけでは「九年間も日本一の座に座りつづける」ことは不可能だ。 「ONの価値は数字だけではない。彼らはチームの鑑であったのだ。そして、彼らをそういう存在に育てあげたのは、まぎれもなく川上さんだと思う。 しかも、つねに長嶋をたてる王の人間性が大きかったとはいえ、川上さんはふたりを並び立たせたのである」と見る。
 また、巨人の伝統のなせる技だとの見方もあるが、「いや、ちがう。川上さんのまじめな性格、曲がったことが大嫌いな性格が、 それを可能にしたのだと私は思う。川上さんがそういう土壌をつくったのだ。その源にあったものこそ、『人間教育』だった」と考えているといい、 川上監督の息子が記す中(貴光さんの著書『父の背番号は16だった』)の一つ、こんな話を披露する。
 川上さんは「トイレのスリッパをきちんと揃えて脱げ」と選手に命じていたという。 「あとに使う人のことを考えろ」という意味である。川上さんはそうした人間としてのマナーについて厳しく注意した。 ミーティングでもチームプレーのもととなる「和」といった心の持ち方についてもうるさいくらい話されたそうだ。 これらはチームプレーを徹底させるために、絶対に必要なことだからである。

 さて、二歳の子供に脱いだ靴をそろえさせるしつけをする父親と、川上監督の共通点は、もうお分かりであろう。
 私自身、いまも他家(それは靴を脱ぐ医院でも)では、脱いだ靴を揃えなおしている。習慣でもあるが、やはり礼儀である。 ひところは医院などで、ついでに他人のも二、三足は揃えていたことがある。
 だから、何人もあつまる宴会などでは、ほとんど脱ぎっ放しのを見ると、オジサンたちは行儀が悪いなあ、 と思ったりするが、かつての巨人のように"紳士たれ"といわれる世界はなく、野放しの状態である。 この国の将来は、二歳児の成長に待つしかないか?!

「格差…」
 わが家にいま、受験生はいないが、いつまで経っても気になるのが、この国の教育であり、青少年に関する問題である。
 親はなくても子は育つなどといわれた時代は、とっくに過ぎ去り、いまは親がいるから生きられない時代である一方、 子が親を尊敬する"超えられない壁"、そして"目指す目標"としての存在ですらなくなった時代でもあるが、現実はどうか。
 「教育費/中学受験家庭は4倍/二極化 高学年は月4万6900円」とあるためかどうか、東京都では「生活保護世帯に塾代援助 /中学3年 年間15万円/『格差』抑止4月から」行うという。
 その学校はというと、「塾講師に"教え方"学ぶ−どうなる学校−/公立が塾と連携(下)」というほど先生の教え方は難しい上に、 さらに国による「体力も全国テスト/必要なのか 戸惑う学校/負担ズシリ『時間確保厳しい』」というのは、 学校間格差を促進させるらしい(いずれも東京08・4・9,3・29,5・6,4・2)。
 つまり、児童生徒だけでなくセンセイ方にも、つい"同情"したくなるようなのが現状らしい。
 ここにある"二極化"と"格差"は同義語であり、それを解消したいとは行政の意向のようだが、 やはり根底には"競争"(格差)を促進するという国の意図が感じられる。
 裕福であれば教育にお金をかけることができ、よりよい大学まで行かせることができるかもしれないが、 その前に親がやらなければならないのは真の教育つまり"しつけ"であろう。
 しかし、"友だち親子"が当り前になって久しく、飲酒・喫煙にケータイなど、 ある年齢までは我慢しなければならないという厳然たる"格差"を経験することなく育った親は、子どもに甘く、 何かと学校に文句をつけるモンスターペアレント化しており、しつけが必要なのはこれらの親たちだが、 だれも彼らの鈴をつける勇気はない?!
 一方、先生も人の子(時代の子)、いや人の親でもあろうから、親という点ではやはり保護者との"格差"はない、かもしれない。
 では、行政はどうか。「生活保護世帯に塾代援助」と"善政"に見えるが、そこはタテ割り行政の"美点"が顔を出し、 A課が「生活保護を受ける資格はない」と判定すれば、B課は"援助"金を出す前提が崩れるのではないかと思うが、 彼らは粛々と業務を遂行しているとうそぶくに違いない?!(たとえ、生活保護費を着服していても……)
 教育は国家百年の計と唱える一方で、学習指導要領の改訂などを見ると、朝令暮改、政治家や官僚はとても"ゆとり"のある人たちとは思えない。

(以上、08年5月6日までの執筆)


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