「この子、どこの子?!」
新聞の投書欄は、ときに時代を活写してくれ、パソコン相手の"引きこもり"族には、ありがたいものだ。
東京08・08・26「魚の呼び方 違和感抱く」(主婦63歳・海老名市)によると、孫が母親と金魚を買いに行ったときのこと、
売場の人が「どの子にしますか?」と聞き、孫が「この金魚」と答えると、「この子なのね」と言って、すくってくれたという。
そして、犬と散歩しているもの同士が「うちの○○ちゃん」と話すように、魚もこのように呼ぶようになったのか、
と投稿したお祖母さんは気になる様子であった。
一方、読書欄は、書くことを専門にしている方たちが書評するのであろうが、こういう例もある。
同紙09・07(金井美惠子著『昔のミセス』について)「…収録された他の文章で倉橋由美子や石井桃子や深沢七郎のことを読んでも、
昨年死去した飼い猫トラーのことを読んでも、体験に同期する錯覚が起こる。…」。この評者は千野帽子(千の帽子?!)といい、肩書に「俳人・文筆業」とある。
分かりにくい文章に苦労して付き合っていると、突如現われた「昨年死去した飼い猫トラー」には、おどろきましたねえ。
人間の場合は「死去」や「死亡」、「亡くなった」でもよいが、犬猫まで同列に「死去した」んじゃ、人間さまの尊厳はどこへ行ったのか、
と他人事ながら思うのである。
さらにいえば、「倉橋由美子や石井桃子や深沢七郎のこと」では、同じ「や」の繰り返しは工夫が足りず、同じ箇所に「のことを読んでも」と同じ語句が二度も使われるのは、
工夫が足りないどころか、言葉に"鈍感"な証拠ではなかろうか。
もうひとつ、「同期する錯覚」とは、シンクロナイズする、というような意味であろうか。多様な表現が可能な詩歌の世界ならば、
許容されるかもしれないが、俳句でもこのようなコナレナイ日本語がまかり通るのであろうか。
いまや、若い人を中心に、数を数えるのに、みな一個、二個と"統一"されてしまった言霊の国・日本、猫だって(飼われていたから)「死去」する世の中である。
むしろ、猫に食われかねないキントトだって、人並みに呼んであげたほうが、よろしいんじゃないでしょうかしらん。
《「呼んであげた」も今ふうの表現で、正確には「呼んでやった」が正しいはず》
「8・8・8の再来?!」
ある日、1996年〜2001年の新聞切抜きを処分しようとして、半年ごとにまとめ、ヒモで綴じた束を解体していると、
面白いものがいくつか見つかった。
その一つが、"平成8年8月8日"に関する記事である。
そう、今年(2008)、中国がオリンピック開催日を8月8日に拘ったのは、かの国でも縁起のよい数字が重なったからだそうだが、
12年(1996)前の日本でも話題になっていたという記事である。
まず、96・08・06東京新聞は「末広がりパワーで 『重い夏』を明るく/首都圏各地 イベント目白押し「『笑いの日』制定求め集会/記念切手やスタンプも」
「万葉集にも例/日本人はゾロ目がお好き/初当選の年次 実力者ズラリ」と大特集である。
添えられたカラー写真は"8"が三つそろったスロットマシンという念の入れようだ。
この"『笑いの日』制定"の主唱者は漫画家の加藤芳郎で、「国民の祝日を作り、本当の笑いを取り戻そうじゃねえですか」と写真入りで載っている。
当日の8日付夕刊も加藤らが"主役"、「8月8日はハッ、ハッ、ハッ……と『笑いの日宣言』をする加藤芳郎会長。
その他アグネス・チャンや岩井半四郎らの各会員というモノクロ写真が冒頭にあり、見出しは「『平成8年8月8日』全国で、
888フィーバー/人文字、ウオーク イベントさまざま/こちら末広がり期待しての再開 はこだて自由市場 火災から7ヵ月ぶり」と"満載"である。
さて、96・08・06付にある「初当選の年次 実力者ズラリ」というのは、「政界では初当選年次がゾロ目だと実力者になる」というジンクスがあるとして、
昭和22年組には吉田茂、田中角栄、中曽根康弘。33年組は竹下登、金丸信ら。44年組は土井たか子、小沢一郎、不破哲三ら。
55年組は菅直人の名がある。
昭和66年はその年が存在せず、平成11年は選挙があったかどうか、同22年はこれからだが、最近の歴代首相、
小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫は、どの年の初当選であろうか。
また、自民との総裁選に出馬予定の、麻生太郎、与謝野馨、石原伸晃、小池百合子、石破茂らは、ひょっとして平成11年組であろうかしらん?!
もう一つ、08・06付にある「『重い夏』を明るく」は、この年「猛威をふるう病原性大腸菌『O157』に席けんされどことなく重苦しい今年の夏」をさしているようだが、
6日、9日に広島、長崎に原爆を落とされ、15日には終戦を迎えた戦後の日本の8月は特別の月である。
笑って済まされるものではない。「ハッ、ハッ、ハッの『笑いの日』」は永遠に来ないであろう。
「書くこと…母の場合」
就学前は、ガンとして文字を覚えるのを拒否していたという私が、長じて文章に関する本やカルチャースクールでの講師をするようになるとは、人生は分からないものだ。
さらに、いつのころからか、私が"物書き"志望となったのは、父の影響によると思っていたが、そうでもないことが最近になってわかった。
新潟県に生まれ、1917(大正6)年に尋常小学校を卒業した母は、次女のため25歳で家を出て、東京で看護婦の資格を取り、
その仕事をしながら、1933(昭和8)年に不景気だった日本を脱出し、大連に渡り、看護婦の仕事を続けていた。
当然そのころも故郷に手紙を書き送っていただろうと考えられるが。結婚はその2年後、30歳のときである。
いま、母から私および家族に送られた手紙の整理をしている。昭和48(1973)年から平成元(1989)年の17年間、
母の69歳から85歳までのものである。封書が主体だが、ハガキや現金書留に「郵便書簡」もある。その数ざっと500通を超える。
そして、これに匹敵すると思われる多くの手紙を、故郷の関係(10名前後)、大連時代、神宮寺(小浜市)、新所原(湖西町)、
茨木の各時代、あるいは私の東京での関係者など、それぞれ縁のあった方々に、年賀状だけでなく、折に触れて出していたようだ。
当然、いただいた手紙も多い。
なんども、同じ内容を繰り返し書いていることが多いが、主として神仏を敬う、信じる、感謝の気持ちを持ち続ける、というもので、
相手は仏教徒、クリスチャン、天理教徒の方々でもあった。
なお、老齢によるさまざまな症状(本人に言わせると"病名なし")により、昭和62年5月から入居した有料老人施設とその母体である病院に入院したりするものの、
なんどか元気を取り戻していた。
やがて、手紙は途絶えるが、私は毎日、朝の定時に電話を入れ、また毎月のように見舞いに行き、さらに手紙やハガキも出している。
母は書くことは怠らず、日記は昭和61年10月22日から62年1月途中まで、63年10月16日から同年末まで、さらに平成元年3月31日から同2年10月2日まで、
とびとびではあるが記している。
このほか、主にコクヨの便箋を使い、大連時代や引き揚げ後のことなども書き残していた。その数、20冊以上である。
私はその一部(出生から結婚するまで)を『わが半生の道 第一部』として、昭和60(1985)年11月、母が81歳の時に自費で出版した(100部)。
私はすっかり忘れていたが、母の日記に「5月末…外に出る用もなく、部屋の中で静かに、健午と約束をしたので、
自分の歩いた道を少しずつ書きつづって残す事にした」とあるのは昭和46(1971)年のことであった。
ちなみに、今日(9月9日)は母の命日で、13回忌にあたる。改めて家族とともに冥福を祈りたい。
(以上、08年9月9日までの執筆)