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「まだまだコラム」 2008年12月上旬号

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「裁判員制度そうどう?!」
 先月28日早朝、いつものようにメールを開くと、「裁判員」というタイトルが目に入った。 「なんだ、これは?」と思って開いて見ると、ある大手新聞社の友人からで、つぎのようにあった。
 裁判員に選ばれた人に、29日から郵送で最高裁判所からの通知が届きはじめます。 350人に一人の確率、全国30万人にということです。/わが社の司法取材チームが社員とその家族に「当たったら教えてください。 取材をお願いしたい…」と協力を求めています。この取材手法は法務省もOKしているそうです。 /早ければ30日朝刊にでも反響を載せたいそうです。
 とあり、もし"当たった"場合は、すぐにもケータイに連絡してほしいとのことだった。
 友だちからの"お願い"とはいえ、私自身もカミさんも、くじ運のない人生だ。しかし、350人に1人となると、ひょっとして"当たる"かもしれない。
 いや、そもそも初めて導入する裁判員制度というのは、裁判などにほとんど縁のない善良な国民を、殺人など凶悪犯罪者を裁く場に連れ出そうというものではないか。 かなり前から報道で賛否両論が展開されていたが、も一つ釈然としないところがあるというのが、わが日ごろの感想である。 "当たった"なんて、喜んでいる場合ではない。
 しかも、「30日朝刊」にでも載せたいというからには、これは逃げ出すしかないと、かねて予定していた清澄庭園まで出かけた。 多くの老若男女に外国人親子もちらほら、今年の紅葉はどこでも例年ほどではないようだが、暖かな陽気で、まずまずであった…。
 しかし、そのまま、まっすぐ帰って、ポストをのぞくと、"来た!"となっては、朝刊の締切に間に合ってしまうと、余計なことまで考えてしまった。
 そこで、地下鉄を途中下車して、国会図書館に寄りぶらぶらと時間をつぶして、帰宅したのは夕方の6時ごろ。 ポストにあったのは、広告にチラシだけで、お目当ての通知は見当たらない。やっぱりという安堵とも失望ともつかぬ気持ちとなった次第。
 そのあたりの気持ちを、翌日のわが東京新聞(12/01)が代弁してくれていた。いわく「裁判員 通知に戸惑う候補者/『まさか…』『責任重い』」で、 ある男性のコメントにこうある。「被告の人生を左右すると思うと責任が重過ぎる。仕事をやすんだら、会社に迷惑をかける」。
 しかし、よく考えると、被告ばかりか、選ばれた裁判員自身の人生をも左右しかねないのではないか。 とはいえ、「仕事をやすんだら、会社に迷惑をかける」なんて、余程よい会社に勤めておられるんだろうなあと、定職もなく、 未成年でもなく、70歳以上でもない、中途半端な私はひがんでしまったのである?!

「教育か経営か、それが問題だ―近ごろ高校事情」
 東京08・11・28「都立日本橋高で入試不正/前年退学の2人不合格/校長ら処分へ」によると、06年度の入試で校長と副校長が受験生の男子2人の点数を意図的に操作して減点し、 不合格にしていたという。2人は05年に合格した元生徒だが、校内外で暴力事件を起こすなどの問題行動があり、 同年12月に自主退学したのち再受験して、合格圏内に入っていたそうだ。
 ところが、校長は2人が入学すると、生活指導上の問題が再発すると考え、副校長に不正操作を指示し、 かなり込み入った、しかも卑劣なやり方で、とにかく2人を不合格にしたというから、きわめて後味の悪い"事件"である。
 今や高校も"義務教育化"し、せめて高校ぐらいはというなか、不況で途中退学も余儀なくされる生徒もいる。 再受験をしてまで、同じ学校に通いたいというのは健気ではないか。それを、予断でもって門前払いするというのは、 教育者にあるまじき悪意に満ちた行為。
 とはいえ、校長らの気持ちも想像できなくはない。大学受験が過熱する一方で、授業についていけない生徒が多い、 中途退学してしまう、よい生徒が集まらないなど、いろいろ悩みはあるだろう。
 ただ、悩むむだけでなく、それを打開する一つとして、偏差値という"化け物"を廃止する運動を行うなど、 生徒の側に立った行動を起こしてはどうか。さらに、保護者に対して、やがて社会人になるのだから、 家庭でしっかりとしつけてもらいたいと"約束"を取り付けるぐらいの努力をすべきではないか。 あるいは、学校評価という競争原理を廃止すべきとの運動を展開してはどうか。
 ああ、それなのに、処分を受けて自らの輝かしい?キャリアに傷をつけてしまったとは、今どきの高校生と変わらない?!

 同じく12・01「高校生徒寮に喫煙室/県条例違反容疑 愛知県警が捜索」にも、ちょっと考えさせられる問題があるようだ。 同紙によると、不登校の生徒らを全国から受け入れている全寮制の私立黄柳野〈つげの〉高校(新城市)の生徒寮に喫煙室が設けられていることが分かり、 県警が寮を捜索し、灰皿などを押収したという(県青少年保護育成条例−喫煙場所の提供−違反の疑い)。
 生徒数231人(うち成人は約10人)の同校校長の話によると、「法律違反だとは知っていた。喫煙のための部屋ではなく、 禁煙につなげる教育指導としての取り組みだった。2010年までに喫煙者をなくすことを目標にしていた」そうで、 山火事を防ぐために昨年4月、四つある男子寮にそれぞれ「禁煙指導室」と名付けて設置。 職員が喫煙した生徒をチェックし、禁煙を指導するようにしていたという。現実に、昨年に女子寮でたばこの不始末が原因と見られるボヤも出していたそうだ。
 うーん、校長のいうことはもっともらしく聞こえるが、生徒たちは喫煙を公認されたと解釈するのが多勢であろう。 かつての中高生は、未成年の喫煙は罪悪だと知っており、校舎の陰に隠れて吸う"後ろめたさ"をしょいながらの"背伸び"行為だったが、 いまやタスポも抜け道だらけの世のなか、少し感覚がずれてやしないか。そうでなければ、やはり"経営"の問題なのかもしれない。

「愛校心とは何か」
 先月16日(日)、大阪市内での創立40周年記念と銘打たれた同窓会第20回総会・懇親会に出た。
 私は久しぶりの参加で、仲間13人との歓談や他の期の方、学校関係者との話もでき、それなりの意義はあった。 その夜一泊し、17日には母校での"沿革史"に関する打合せにも顔を出したあと、帰途浜松で下車し、小学校時代の友人2人と三ケ日温泉に遊んだ。 これはミニ同窓会と勝手に名付けている。
 本題に戻ろう。母校は70年近い歴史のある中高一貫校として、それなりの社会的評価を受けているのはメデタイが、 いろんな問題を含んでいるのだなあと、改めて思わされた。
 ホテルを借り切っての催しである。まず、総会と講演会の運営は前者では他の例にもれず、あまりスムーズとは言えず、 可もなし不可もなしであった。ついで、講演会は55期卒業の登大遊君(翌日、24歳に)による「ITプログラマーの挑戦」と題するもので、 聴衆はみな年上という、滅多に見られない取り合わせであった。目下、筑波大学大学院に通っている起業家、 ベンチャー企業の会長でもある彼の話は、とても分かりやすく、好評であった。IT関連は、ほとんど無知の私だが、 あの若さでの"企業哲学"は、今後に期待するもの大であると思った。
 それに比べ、懇親会はわが13期生に限らず、参加者の少なかったこと、その割には料理だけ盛ったテーブルの数が多く、 運営のまずさにおどろいた。一万人余もの卒業生がおれば、どの期にもさまざまな分野で活躍、あるいは経験をつんだ人物がいるだろうにと思うのだが……。 ただ"盛大"にやればよいというものではない。
 さて、私に愛校心がどのくらいあるのか自問すれば……。たとえば、何かにつけて母校に寄付をする、困ったときに馳せ参じる、 母校について喧伝する、恩師を訪ねる、あるいは亡くなれば弔問するなどと並べてみると、どれも、"も一つ"という感じである。 高校はおろか、大学の校歌もお終いまで諳んじていないし、創立記念日もあやふやである。20回を迎えた同窓会にも、半分しか出ていない。
 しかし、初代の校長先生に対する敬愛の気持ちはそれなりにあるし、母校の将来についても気になることはたしかである。 上述の"沿革史"に関しても、できることがあれば協力したい気持ちは大である。
 いま、日本の教育界は公立も私立も、小中高校も大学も、また児童生徒に学生ばかりか、教師や教授もふくめ、 さらには教育行政ですらさまざまな問題を抱えている。
 そのような時代背景の中で、母校はどのような歴史をたどってきたのか、現在はそして未来は、どのような方向を目指しているのだろうか、 と考えるとき、単に集まって歓談するだけでは物足りない。また、参加者を数多く集めることでもなく、芸人を呼ぶことでもなく、 OBは後輩や母校に対して何をすべきか、を語り合う機会があってもよいのではないかと、一人で"反省"することしきりである、 と書いておこう。

(以上、08年12月2日までの執筆)


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