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「まだまだコラム」 2008年12月中旬号

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「ケータイ不用論?!」その1
 弁護士、タレントついで大阪府知事となった橋下徹は、何かと話題を提供している。好きなタイプではないが、 今回の「公立小中学校への携帯電話の持ち込み原則禁止」に私は"原則"賛成である。
 東京08・12・05「橋下知事『小中学校の携帯禁止』…識者は/『持つこと前提』 『使い方教育を』/ 中1の半数所持、1割『メール1日50回超』」によると、すでに大阪府内の大半の公立小中学校では携帯の校内持ち込みを禁じている。 府の教育委員会では、年内にも大阪、堺の政令都市を除く全公立小中学校での校内持ち込みを禁ずる、としている。
 ただし、両親が働いていて安全確保のために持たせる場合などは例外という。 府立高校の場合は、持ち込みはよいが、使用は禁止にするという。
 さて、"禁止"を打ち出した橋下知事は、その根拠として全国学力テストで大阪府の小中学校ともに2年連続で低迷していることを受けて、 「(携帯に依存していたら)学習時間が短くなるのは当然。大阪の学力の問題はここから入らなければ」といったそうだ。
 また、同記事に「携帯依存傾向の強い子ほど家庭での学習時間が短く、(携帯による悪口など)被害体験がある割合も高いことなども明らかに」とある。 つまり、「親は子どもに、"電話連絡"用に持たせるが、子どもはメール、携帯サイトの閲覧、ゲームなどの"情報通信端末"として利用する」。 だから、携帯依存だけでなく、プロフなどを介して少女が見知らぬ男性と会ったり、薬物依存や自殺サイトに接続するなどの危険もある、とする。
 そこで、識者の意見「問題は授業中に電源を切るなどのマナーや正しい使い方が守られてない点だ。 子どもが携帯を持つことを前提に、危険やマナーを教えていかないといけない」(森井昌克・神戸大大学院教授)とか、 「…子どもの携帯電話については、市町村でPTAが講座を開いて親が危険などを学び、子どもの使い方をチェックしていくべきだ」(深谷昌志・東京成徳大学学部長)などと、 ノー天気なコメントを載せて終っている。
 もう、お分かりのように、この記事におけるケータイをめぐる議論は、府知事のいう"学力低下"の問題ではなく、 "持つこと"を前提の"利用の仕方"にすりかえられている。

「ケータイ不用論?!」その2
 (承前)大阪府知事の発言を、どう思うかと聞かれた東京都知事はめんどくさそうに「私は持ったことがないんで教養の水準を保っているが、 持ったら下がるかな。…本来、親が与えなければいい」といったそうだ(東京08・12・06「石原知事会見ファイル」)。
 先の深谷氏も言うように"親の問題"なのだが、現実はその親が問題なのである。若い母親は赤ん坊を自転車に乗せたり、 バギーを押しながら、ケータイを使っているし、電車内でおもちゃ代わりに持たせるのは、切符(今はPASMOか)やカギ束と同じで、 子どもは赤ん坊のときから、なじんでいる次第?!
 つまり、「PTAが講座を開いて」も聞く耳持たずで、ケータイの受信音を鳴らす彼女らは立派な"依存症"なのである。 だから、大阪府自体も「両親が働いていて安全確保のために持たせる場合などは例外」とするなどと、抜け穴を設けているのだろう。
 しかし、この"安全確保"がほとんど役に立たないことは、GPS装置付をはじめ各地で起こっている事件で明らかである。
 学校以外ではどうか。電車内での光景は、かつては新聞か雑誌や本を読むか、居眠りをするかであった。 今や老若男女を問わず静かなのはよいが、ケータイの画面とにらめっこばかり。メールかゲームか知らないが、揺れる車内で、 あの小さな画面に没入する姿は"自分ひとりの世界"に没入するばかり。これではまわりで何が起ころうが、自分に関係なければ無関心となる。 逆に、ちょっと肘が当たっただけでも逆上するのは、まさに"空気が読めない"からであろう。
 大人でさえこうだから、社会経験の少ない子どもたちが些細なことで"切れる"のは当然であろう。 いやいや、大の大人が"息子の声を信じて"いとも簡単に振り込めサギに引っかかるという現実を解消するには、ケータイどころか、 固定電話でさえ危険である。持たせてはいけない?!
 "文明の利器"には違いないが、十数年前までは持っていなくても不便とは思わず、人生に困ることはなかった。 そして、子どもの顔を見るまで心配していたのが親だった。だが、ケータイのおかげで、子どもの"プチ家出"が流行るようになり、 親は「(ケータイで)連絡してくるから安心」と、本来の親の責任を、いとも簡単に"糸の切れた"ケータイに任せるようになった。

「ケータイ不用論?!」その3
 (承前)別の例をあげれば、人々は食べ物について自分の味覚や嗅覚、触覚で食べられるかどうかを判断してきた。 ところが、賞味期限や消費期限という"文明の利器"が出現すると、期限切れはアブナイという"信仰"となり、 冷蔵庫の中のまだ食べられるものまで簡単に捨てる人が増えた。
 かくて、古来の"もったいない"思想より"捨てる"が優先されるという"他人依存の情報"を信ずる、若い日本人が増えた。 この人たちが、いまや親となり、社会の中枢を占めるようになったことのほうが問題ではないだろうか。
 そもそも、人間の子どもは、知恵をつけ、自分で判断し、行動するという成長過程は他の動物より年月がかかる。 ところが、"文明の利器"=オモチャを与えられた好奇心の旺盛な子どもは、すぐに飛びつく。どこをどうさわっても、 さまざまに変化するものに飽きはこない。つまり、手放さないであろうから、他に関心が向かない。
 しかし、彼らはその危険性までは学ばない、いや知恵を持たず人生経験も備えていない。 その分、成長するにしたがって、身につけなくてはならない知識や常識がおざなりとなり、面倒くさく、 なんの役に立つか分からない? 勉強についていけなくなる、という結果になるのではないか。
 つまり「(携帯に依存していたら)学習時間が短くなるのは当然」という以前の問題であろうが、 "ケータイがあれば、私は安心"と思うその親たちか"ケータイ=安全"と錯覚しているのは(その1)で見たとおり。
 一方、「大人になりたくない」という子どもが多くなったのは、もうずい分前からのことだ。
 理由はさまざまであろうが、本来大人が自分の責任の範囲 (端的には、収入) 内でほしいものを買う、 あるいはお金をためて(余裕ができて)から手に入れる、というのが"正常な経済行為"であったのが、 月賦やローンなどで簡単にほしいものを手に入れることができるようになって久しい。
 つまり、"我慢"を学ばずに親になった日本人が、子どもに我慢を教えるはずはなく、そして"みんな持っているのに、 うちの子だけ持たないのはかわいそう"よりも"自分が安心(で、その分、親業を放棄できる)から"という理由で、 ケータイを持たせる、だけのことではないか。
 したがって、経済観念も年齢相応の知識も常識も身に付かない、好奇心旺盛の子どもたちは再生産されるだけでなく、 年相応の学識も常識もあるはずの老大学教授が「市町村でPTAが講座を開いて親が危険などを学び、 子どもの使い方をチェックしていくべきだ」などというコメントを載せて恥じない記者が書く新聞が、まかり通ることになる?! 

(以上、08年12月16日までの執筆)


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