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むりやりエッセイ 4月下旬号

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「ああ、金婚式…」
 昭和34年4月10日は、天皇陛下が正田美智子さんと結婚した日である。今年50年を迎えられたが、当時の私はそれなりに複雑な感情を抱いていた。 しかし、このたびの会見で、喜びも苦労もともにし、歩んでこられたのは並み大抵のことではなかったと改めて知った次第である。
 では、ささやかな私家版「皇室アルバム」をお送りしましょう

 小学5年(1953年)当時、仲間と“学級新聞”を作り始めた(静岡県)。どんなものだったか……(浪人時代、19歳と1ヵ月半の1961年8月中旬に記録したものより)、
 (前略)ワラ半紙うらおもて2ページの“新聞”は、世界ニュースから日本のニュース、学校から学級のニュースまでも、ご丁寧に報道するのだから、 そのサービス精神たるや異常なものであった。
 そのうえ、右翼もなければ左翼もなく、我らの読者は完全に支持してくれて、文句など少しも聞かれなかった。だから、それだけやり甲斐があった。
 また、協力してくれることには、学芸部長にうれしい悲鳴を上げさせるほど、文芸欄のにぎわいは相当なものであった。
 創刊号の「世界ニュース」は“6月2日、ロンドンのウエストミンスター寺院でエリザベス女王の戴冠式挙行”を予告。 もう一つは“朝鮮で国連軍と中共軍の間でほりょ交換が行われました”と平和的な人道問題を報道、政治に無関心な読者を啓蒙。
 しかし、「日本ニュース」は“29日、天皇誕生日、みんなでおいわいをしましょう”とはなはだ無邪気に日の丸バンザイを唱えたことだった。
 私はまだ“天皇”というものが、いかなるものかをはっきり認識していなかった。 そのため、次に“皇太子はもうすぐイギリスにお着きになります”と書いてしまった。

 50年前のこの日(1959年)、大阪で中学2年生だった私は、それ以前からラジオで流れるリカルド・サントス楽団による大ヒット曲「皇太子のタンゴ」をよく耳にし、 ついで翌60年には島津久永氏と結婚する清宮貴子内親王のときはマンボの王様ペレス・プラードが「プリンセス・スガ」を贈っており、 これも一時的に流行ったことを覚えている。

 その若き日の私に、ご成婚と青少年問題に関する感想がある。 これは『朝日ジャーナル』への投書だが、“誌面の都合で”ボツになったもの(『有害図書と青少年問題―大人のオモチャだった“青少年”―』明石書店2002・11/p170)。
 〔四月十日のめでたき日はもう済んだが、どうもすっきりしない事がある。…内閣は二人に百万円を贈った。 当の二人はその約半分を“子供の為に”と希望どおり児童福祉の方面にまわすことになったそうだが、 …しかし、現状ではそればかりの金額で満足な施設なりができるものではない。 それに内閣が、結局は国民の血税であるものを、ただ“特別”の結婚というだけで、無闇に使うのはどうかと思う。 …児童福祉にしても、「英雄」を生んだ聖心女子大が、少し援助をしたそうだが、われわれ青少年の問題は今日に始まったことではない。 随分前から問題とされているのに、それだけの援助ができるのなら、何故もっと早くしなかったのだろうか。 …恩恵を受ける側にしても、真心のこもったもの程ありがたいものはないのである。 世の人々が、これぐらいのことに気付かないはずがなかろう(発信日三四・五・一三。高校二年、十六歳)〕。

 ……これが成長というものか、衰微ともいうべきかはともかく、年齢相応の“知識”と“感慨”の推移というものを垣間見ることができる、といえそうだ。

「オリンピック招致、承知?!」
 先日、古い書類を整理していたところ、東京オリンピックのあった昭和39年、すなわち1964年10月5日の日記に、 こんなことを記していた(当時22歳の学生、雑司が谷に間借り)。
 きのうは、好い天気で、それは別段悪くもないのだが、あちこちで、小学校が運動会をやったらしい。 この近くの小学校も連日、女の先生のヒステリックな声がスピーカーから流れて、練習をしていたが、朝早く、ものすごい花火の音で眼をさまされてしまった。
 何事かと思うぐらいのすさまじさだったが、別けても不可解なのは、なぜ小学校なんかで、五輪音頭などを流し、 かつ小学生に踊らせなければならないのか、ということである。
 何か、とても非常識なことが当たり前として通るのが、判らないのである。

 私はこの年、母校の記念会堂(体育館)が、フェンシング会場として使われるとして休校となるため、“脱五輪”“脱東京”を決め込み、 学友と北海道へ逃げ出したのだった。旅行記に記す…。
  <10月11日 いよいよ道内旅行・苫小牧>
 テレビは、相変わらずオリンピックをやっており、夫婦喧嘩も恋のささやきも、まずはオリンピックが済んでからと、万事休戦の格好である。 不思議なもので、日本の選手が出てくると大いに気になる。こういう感情が未だ、残っているのは尊重すべきなのか、悲しむべきことなのか。

  今度は札幌へ向う。(中略)バスの中でも、ラジオがオリンピックをやっている。これには腹が立ってきた。 旅行して、すばらしい印象を得た後、まだその余韻が残っている処に、誰か客の希望によってスイッチが入れられたことは、とても許しがたかった。 四、五十人の人間が乗っているのに、全く一個人の欲求だからといって、他人の迷惑も考えず、また諒解を得ることもせずに、 勝手に振る舞う日本人の特性には、全く腹が立ってくる。彼には自分のことだけで、他人のことはどうでもいいのだ。彼は、どうやら北海道の人間だった。
  私は、東京もオリンピックもそれからすべてのものと、ほんの少時でも訣別するために旅に出たのだ。それ以外の何ものでもなかった。 そういう気分でいるときに、オリンピックという、全く異質の、全く場違いのものを押し付けられたのでは、私の尊厳も何もあったものではない。
  オリンピックを耳にすることは、私を現実に、東京の片隅のみじめったらしい下宿の一室に、寒く空腹でいる、いつもの私に否応なしに引き戻すことなのだ。
  私が、まさに逃れてきた元の生活に、正確に呼び戻されることなのだ。私は旅行中、全く別の私でありたかった。 誰に気兼ねするでもなく、誰にあいさつするでもなく、ただそういう自由な人間でありたかった。

 今2009年4月、再び東京でオリンピックをと、 (2016年開催の)招致運動を起こした石原都知事は、視察団の評価にふれ、“好印象”をもらったと自画自賛している。
 一方、私の気持ちは“22歳の学生、雑司が谷に間借り”していたときと、ほとんど変わらないのである。

「禁煙がダメなら、絶煙の対策を」
 先日、数人の飲み会で、タバコ好きの一人は「もう吸わない人と飲むのは止めようと思う」と私のほうを向いて言った。
 近ごろ、町を歩いていると、男女や年齢に関係なく、歩きタバコの人がやたらに目に付く。 いや、目に付くだけでなく、かなり遠方でも、そのにおいが気になるのだ。空気全体がにごって?いるからか、紙巻タバコの紙を含め、 当時より劣化しているのであろうか。あるいは、わが鼻が過敏になっているのは老化現象の一つだろうか?!
 私自身、学生時代に寮で“吸うまね”をしたぐらいで、その後ほとんど口にしてはいない。 酒を飲むと吸いたくなることもないし、口さびしいからと吸う口実にすることもない。 「なぜ、吸わないのか」と聞かれて、「面倒だから…」という、ほとんど理解されない返答をしたことがあるが、ホンネだった。
 まだ、禁煙運動が盛んでないころ、周りに吸う人はいくらでもいたが、それほど気にはならなかった。 思うに、たとえば20数種の葉をブレンドするという缶入りピース(50本入り)など、缶をあけた時のにおいは何ともいえない、いいにおいだった。
 世の中には、タバコを吸いたい人もおれば、吸いたくない人もいる…。 これだけでは嗜好の問題ですみそうだが、いまや受動喫煙という、吸わない人、吸いたくない人を病気にさせる社会問題が起こっている。
 09・04・20東京「記者の眼」…「進まぬ飲食店の喫煙規制/受動喫煙の害、周知徹底を」は、神奈川県条例の施行から6年経った今でも、 受動喫煙の対策が不十分だと伝えている。つまり、床面積100平方メートル以下の飲食店が対象外だからという。
 なぜそうなったのか、小規模店で全面禁煙としたら客が来なくなり、経営が成り立たなくなるという論理だったらしいが、 別の調査では喫煙容認は客離れを起こす傾向にあるという。
 もう一つ、違った観点から言えば、いま大麻の吸引や栽培などが大きなニュースとなっているが、タバコの害に比べれば大したことはない、 厳しい法律があるのは日本だけだという、米留学経験のある医者が言っていた。
 では、タバコを吸うことに厳しい制限を設けるかといえば、大蔵省(いや、財務省)が反対するであろうことは目に見えている。 国民の健康より、有力な財源を確保したいからである。反対するのは小規模飲食店ばかりではない。

(以上、09年4月20日までの執筆)


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