「近ごろ、テレビ事情」
この一週間ほどのラ・テ欄、いや視聴者の声を拾い読みしていると、実際には見ていない番組の内容や、世の中の動き、
興味のありどころ(それは視聴者ではなく、テレビ関係者の)などが推測できて、便利この上ない。《以下、文末の日付は東京新聞掲載日》
◆「いきなり! 黄金伝説」4・23・朝日「毎度おなじみの大食い企画…今回はゲストに演技派女優が出ているので変だと思ったら…
案の定、この日から始まる彼女主演のドラマの宣伝。テレビ局は番組宣伝のためなら何でもありなのだろうか」(東松山市・男性50・会社員)…4・29付。
◆「みんなのケイバ」4・26・フジ「司会の女性タレントが名前をつけた馬がメーンレースに出て3着になり、オークスの出走権を得たことで彼女は興奮状態。
番組進行そっちのけでした。うれしいのは分りますが、タイトルは『みんなの』となっているのに、…番組を私物化していると思いました」(渋谷区・男性26・公務員)…5・1付。
◆「アッコにおまかせ!」4・26・TBS「司会者がタレントの逮捕について同じグループに二人も逮捕者が出ているのに擁護するのはおかしいなどといっていましたが、
逮捕即犯罪者ではありません。その後、自分の店の宣伝をしていましたが、司会者が好き勝手なことを言える番組なのですか?」(富津市・女性66・主婦)…5・2付。
◆「スーパーモーニング」4・27・朝日「新型インフルエンザなど重要なニュースがあるのに、タレントの逮捕に関する話題を始め、
芸能ネタに相当な時間を費やしていた。以前は、骨のある番組として楽しく見ていたが、二年前にリニューアルしてからは普通のワイドショーになってしまい、
残念だ」(さいたま市・男性70・無職)…5・3付。
◆「スーパーモーニング」5・1・朝日「高速道路の渋滞状況を伝えていたが、リポーターが車に乗って高速道路を走りながら中継していたのにはあきれた。
コストや時間をかけて、わざわざ走る必要があるのか。さらに、道路上空からも同じような状況を伝えていた。
その分、ほかの話題を放送すればいいのにと思った」(北区・女性39・パート)…5・5付。
世の中不況のため、スポンサーも渋くなり、テレビ局も出費のかからない、安直な番組作りをしているらしい。
たとえば、2時間だったワイドショウが3時間に延長されたことをあげる人もいる。
また、タレントや芸能人、果てはその道の専門家(学者)も加えたクイズ番組など、どの局も似たようなものである。
問題は下請け会社に任せ、出演者は所属プロダクションに任せ、などというところであろうか。
ところで、皆さんが嘆くように、なぜテレビは限りなく下らなくなっていくのだろうか。それは“観る人たち(大衆)”がいるからである。
なぜ“観る”のか、テレビがあるからである。観なければ、視聴率が下がり、スポンサーは降り、番組は自然淘汰されるであろうに、
観ることをやめないのは、嘆き批判しながら、懲りずにテレビに依存しているからである。
いまや、テレビがなくてもパソコンやケータイで、情報の得られる時代となっている。「アナログ」時代の皆の衆、
「地デジ」になっても、番組のレベルは変わらないはず。
そろそろ、テレビと縁を切ってはいかがでしょう?!
「過去を振り返る・記録する…」その1
この年(60代半ば)になったからではなく、私はなぜか若いころから“過去を振り返る”ことをやっていた。
大学浪人時代(18,9歳)には、母から幼少のころ、とくに大連時代のことを聞いて記録している。たとえば、
(大連市初音町の)家は坂道の途中にあって、石段がついていた。だいぶ大きな家で、十畳・八畳・六畳など、全部で三十一枚半の畳があって、
他に大きな台所やボイラー室、お風呂、便所に倉庫などがあった。十畳の部屋には書物がいっぱい置いてあった。
家の回りを囲む塀には鉄線があって、夜になると電気が入れられた。
大連で海軍の合同市葬《1943年2月玉砕した次兄らの》があったとき、ヒチリキがなり出すと、私はワッと泣き出し“荒巻のバアチャン”に、
すぐさま外に連れ出された。
家では犬は飼っていなかったが、いつもひどく大きな雑犬が、三匹も四匹も玄関の前で遊んでいたり、寝転んでいたりしていて、
私はそんな犬たちが怖くて仕方がなかった。
おもちゃとしては木馬や大きな化け物のようなコマ、輪まわし、そしてアコーディオンなどもあった。
蓄音機もあったが、レコードの中にはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」があった。………
小学校に上がると、作文や絵日記を書かされるのは、いまでも同じであろうが、勝手に書いたものもある。
とくに旅行記は書きやすいのか、4年の夏には「大阪見学」を書き、とりあえず元国語教師の父にほめられ、中学3年では10月の「卒業旅行」(写真集も)、
高校3年のときには下原稿だけだが、翌年それらを元に創作「生きるべく道へ」を書いている。
(以上、09年5月6日までの執筆)
しかし、その間「我が一九五七年の回顧」(S32年・中学2〜3年) A4・7枚、「中学三ヵ年の生活の感想および及び反省」《S30〔55〕〜32〔57〕年》
さらに「浪人時代」は「ノオトI」「ノオトU」の二冊(A4・73枚)、学生時代は大小8冊のノート類に“殴り書き”している(A4・113枚)。
《注:( )内の表記はさらに、ワープロ化したもの》
また、これらに書き記したり、手帳などにも書いていた“詩 のようなもの”や、ことば集“けん語録”もB5判のファイルにまとめてある
(HP「けん語録 書く書く詩か字か-青春編-」)。
「過去を振り返る・記録する…」その2
ひょんなことから、父の過去を調べることになったのは、「父と大連・滿鐵…」ですでにお知らせしているが、
それを契機に母や兄のことなどを調べるのは自然の成り行きだった。
母の場合、昨年の初夏、生まれ故郷に行って、尋常小学校のころの賞状など現物をもらってきたり、関係する書類も預ってきた。
筆まめだった母は『わが半生の道 (第一部)』(85・10自費出版)のように、自伝的な原稿を書いているほか、多くの人と手紙のやり取りをしていた。
この整理も終わったばかりである。
陸軍幼年学校在学中に終戦を迎えた三兄は、民間会社のブラジル支社長をするなどした経歴も残されており、学校関係を含めた資料もあって、
比較的短時間で、その一生をつづることができた。
一方、私はいま自分史講座の立ち上げに協力しており、「書き出す前に、わが年表を作ること、写真の整理もいいですネエ」などと話しているうちに、
私自身に関することも調べ始めることになった。
この間、ささやかな蔵書リストを作ったりしていたが、カミさんから結婚以来書き続けている家計簿の整理を頼まれた。
“パソコン入力して、それがどうした”の世界であり、他人に見せるものでも、自慢する性質のものでもない。
しかし、30年以上のわが家の“歴史 (自分史)”であることに変わりはない。それを作って、どんな効果があるのかと聞かれても答える必要はない。
人それぞれであろうからだ。
私自身、何やかやと“書くこと”だけが生きがいではないのだが、人に迷惑をかけるわけでもないだろう。
“寄る年波”云々でもないが、定額給付金の上乗せ年齢でもある。身辺整理も元気なうちにと、やり始めた次第である。
いろいろな整理をやっていて、思いがけない発見がある。忘れていたこと、間違って覚えていたことや、時代の確定に喜んだり、
こんな人と交流があったのかなど、反省したり後悔したり、うれしくなったり懐かしくなったりと、一人の世界は無限に広がる…。
いま、学生時代の次、20代の途中である。当時の手帳とノートを眺めながら、微妙な表現に頭をひねったり、
その後の彼は、彼女はどうしているだろうかなどと思うものの、住所録(電話帳)も、手帳も破り捨てる段階である。
未練は禁物、よい思い出は大事にとっておき、嫌なことは忘れるのが人生の要諦であろう?!
kenha@wj8.so-net.ne.jp