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青春のころ”さまざま その1

2009・12・02橋本健午

ア) “無題” ‘61年10月13日(金) …19歳4か月…
青く晴れた空に ところどころ /人の期待を裏切るごとく /薄い灰色の雲が 銀色のフチドリをつけて  /浮かんでいる このあたりの秋は /町の騒音と共に やってくる

秋はまた 夜の樹々の間からも /ほのかに感じられ ミノムシのあの奇妙な運動も /過去のものとなってしまった

人は物思う秋というが、私にはまだそんな感慨もなく /ただ ひとり淋しく悲しく また時に笑って過ごすのみ

(以上、「浪人時代 その2」 (大学ノート…p14後段の部分。“/”は改行を示す)


イ)[小説ノート]“生きるべく道へ”について。

 (今は<大学に合格するまでは>考えないようにと思っているのだが、どうもこういうことが夜寝るときに頭を去来して、すぐに寝ることが出来ない。こまったことだ。)
 それで、また思いついたことを記しておく。文体は、統一した方がよかろうと思う。 各章によって、変えるという始めの考えも、しかしながら、文章が一定しないということは読みづらくもあろうし、 また無名でありながら、そんな生意気なことをすると、かえってよくないと思う。
 それで、始めの考えを、出来るだけ改めることにした。
 次に文章についていえば、第1章を書いたところでは、どうも“アワテモノの文学”のようであって、いけない。 もっと落ち着いて描写もこまかくした方がよいように思うが反面、心理小説でもなく、多分に“社会的”であるので、 その意図・本領をも充分に発揮するようにしなければなるまい。
 この小説を書くに当って、私の問題とするところは、農村の近代化は可能か不可能化ということ、それに封建的な考えがどれほど根強いものか、 また人間の弱さ、例えば自分がたよれず、宗教にたよることなど、それにMチャン自身が、まさに1960年代の青年でありながら、 いかにその家庭環境で育てられ、生長し、何を考えるようになったか(単に親のいうことだけを聞いて、生きてきた青年かどうか)、それに農業問題。 最大の大問題は、“男と女の、恋愛とはちがう友情”ということで、これこそ、はっきりとしなければならないことである。
 というのは、友情は人のいうように、同性の間では長続きしても、男女間では続くことが困難なのであるが、 それを乗り越えて行こうというところに、立派さがあるのであって、それがこの小説の存在理由である。
 第1章から第3章まで書くにあたって、第2章は、次のような文体で書くことにしよう。 まず、その既成事実を金之助が病院でその話を聞き、また近所の小母さんから、家庭事情や財産のことなどを聞くという形にして、 全体を明らかにすることにしよう。
 しかし、彼女(道子)の生い立ちは、これでは知ることができない。本人に聞くという形にするか(手紙形式でも)、 あるいは(第3章で述べる予定の)二人の対話のところで、生い立ちの話をするかという形式のどちらかをとらなければならない。
 第2章は、他の章に比べて、紙数が少ないおそれがあるので、手紙形式がよいが、そうすると、時間的に矛盾する(いや、これはしないようにすべきである)。
 つまり、第3章の始めの部分は、第4ページに書いてあるように、続きの部分とする、としたが、ちょっと無理なので、 改めて、金之助が1週間のタイ在の後、帰阪の部分で、第1章の終りとしておく方が、スムーズに行くと思う。・・・・・別紙参照・・・・・
 (以上、大学ノート「浪人時代 その2」…p15+3行)

 回想(1) 昨年のちょうど今ごろである。Mチャンと急に親しくなり、そしてその既成事実があるにもかかわらず、 私は彼女がひどく恋しくなって、ついうっかりと本心をもらしたら、Mチャンにこっぴどくしかられてしまったものである。 それからの私は、二人の関係を真に真面目なものにするよういろいろ考慮した。 そのことはまた例の小説(“生きるべく道へ”)で述べることにしよう。(p4…‘61・10・4)


ウ-1)日記(雑司が谷時代 大学3年生・22歳3か月)1964年10月8日 

 もう八日だ。(母校の記念会堂が東京オリンピックのフェンシング会場となるため)学校は休暇に入ったが、別段目新しくもない。 どうしてだろうか。終日雨が降っている。ひどい降りのときもあったが、趣きのある雨で、気持がよい。
 早朝、思いがけなくも、Cから電話があった。それかあらぬか、私はきょう、珍しく早く起きたのだ。私の返事が遅かったので、気になってかけたという。 私もウカツであった。夜、Cから速達が来た。私はすぐに返事すべきだったのに、どうも勝手すぎる。でも、元気なようでうれしい。 若々しい声だ。旅行するのが申訳なくなってくる。
 私にとって旅行とは何であろうか。今までに何度か、私は旅行をした。集団のや友だちとのや家のものと、それらは私に何を与え、何を考えさせたか。
 私は旅することが好きだ。見知らぬ街や自然を、勝手に歩きまわるのは、私のもっとも気に入った方法だ。 そこに何があろうと、どんなすばらしいものが顔をのぞかせていようとも、私は決して解説書の通りに行動しようとは思わない。 私に必要なものは、私自らが認めたものだけであって、それ以外は生命を失う。
 そういう方法は、偏っているかもしれないし、不完全であるだろう。だが、それは仕方がないことなのだ。他ならぬ私が見聞するのだから……。
 今度のは北海道という、遠い感じのする、私にとっては、いささかロマンチックに思われる土地へ行くのである。 何時でも何処へ行っても、そこで何かを発見したいという欲求(それは他人のためにではなく、まったく私個人のために)が、私にはある。それは色々である。 単に思い出というものかも知れない。
 北海道旅行は、多年の念願である。一口に北海道といっても、広いだろうし、今回も全部を網羅するわけではない。ほんの一部である。 だが、そこには、私が求めていたものがあるかも知れない。それを感じとりたいのだ。自分のものにしたいのだ。失望に終るかも知れない。 それも仕方がない。
 写真を撮ることと、文章を書くこと、それが目的でもある。きっと、いつでも、どちらかというと、いい結果をもたらすのだが……。

 雨にぬれて、字がにじんで半分ぐらい消えかかっている上に、更に大きな靴跡が、これでもかと印されている、あわれな手紙。 しかし、中までな決して犯されていなかった。

 ついで「先日、ダリ展を見に行く。(以下略)」という17行があるが、これは「大学時代+α 折々の感慨など (日記より)…10/5  ダリ展(東京プリンス・ホテル)」に、全文がある。

 お茶をのむことを忘れていた。このごろ何か落ちつかないと思ったら、こういう心のやすまる雰囲気を忘れていたからだ。

 Kにソ連製のカメラを借りる。TBSまで行って、もらう。オリンピックの側面を見る思いだ。私には関係はない。何かが起こる。 何事もなくして終ることはない。


ウ-2)日記(雑司が谷時代 大学3年生・22歳4か月)1964年11月6日 

 アルバムが、ようやく完成する。6千円以上かかったのだから、馬鹿にならない。 しかし、こういうものは、そんなに沢山できるものではないから、記念にいいだろう。 写真も大体うまくとれて、少しとっておきたかった風景・場面もあったけれど、カラーがうまく行って、黄葉が何とも言えず、 見事にとれてうれしく思う。《“カラーがうまく”… 友人から借りたソ連製のカメラ「ゼニット(頂上)」を使用》

 Cに長々と手紙を書く。少しは充実した内容になったものと思う。ドストエフスキー論は是非ともやらねばならない。死活の問題である。
 それから藤沢の方も、うまく行けばいいのにと思う。これは全く願ってもないチャンスで、運がむいて来たと思う。

 北海道文化論を書いてしまわなければならない。私の本当の仕事はむしろ、この方なのだから、文章をつくる練習をおこたってはならない。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/kenha/dounan.html


ウ-3)日記(雑司が谷時代 大学3年生・22歳4か月)1964年11月8日 

 早慶戦は残念なことに、二日とも1対0で敗けてしまった。きょうは行くつもりであったが、余りに気が進まず、M君と予定を変更してぶらぶらする。 映画を見て、タマ(ビリヤード=撞球のこと)をついたが、久しぶりに、よく当り、最後は10分間で、40をつくことができた。

 昨日は、藤沢にTさんを訪ねる。全く静かな環境で、よく整った庭のある大きな家であった。気持のよい人で、色々話を聞いてくれた。 あんな立派な落ちついた処で、思う存分読書したり、物を書くことができたら、どんなにいいかと思う。あとで手紙でお願いしようと思っている。

 私はCの気持をもっと充分尊重しなければならない。Cの真心をふみにじるようなことをしては申訳ない。 Cの私に対する期待は、それは過分のものかも知れない。しかし、私はやってみなければならないし、またそれは、やればある程度見通しがつくものだ。
 どんな場合においても、人の好意を無にしてはならないし、人は充分敬意を払うに価するのだ。 私は人を決して裏切るようなことをするつもりはない。何故なら、私のやろうとしていることは決して、他人を踏み台としているのではないのだから。


ウ-4)日記(雑司が谷時代 大学3年生・22歳4か月)1964年11月14日 

 きのう、卒論のことで、5年生のU君と話をする。彼女はドストエフスキーの女性観についての論文を物するらしい。 私に助けてほしいことがあるという。それは女性観について、彼(ドストエフスキー)は女性に劣等感を持っていたのではないかと思うといい、 女性は常に副人物でしかない点に不満だというのである。
 それで、私は彼にとって本当に書きたかったのは彼の分身である主人公であって、女性は書く必要がなかったのではないかと述べた。
 それと前後して、小説家の描く女性とか、男と女の問題だとかについて話をする。その中で、彼女は私のことを曲者だといい、 不良だと決めつけ、さらに不良のやるドストエフスキー論は、興味があるワということだった。

 私はこのごろ、二日か三日おきぐらいに、つまり風呂(銭湯)に入るたびに風邪を引いている。薬(*)を呑むとすぐ治る軽いのものだが、 こうしょっ中引いていたのでは気がふさいで仕方がない。薬屋も今年の風邪は、9月ごろから度々引くのだと言っていた。 これが冬まで持ち越すと面倒になるということだ。寒い上に、どうしても不摂生になるからだが、どうもいやなものだ。
 《*この雑司が谷で間借りしたのは、二階の北側にある二間の一つ、板敷きでベッドがであった。 つまり、湯冷めばかりか、隙間風による風邪を引くのに好条件であったといえる。 当時(昭和40年2,3月)、アンプル入り風邪薬が流行っており、これで死ぬ人が多かったようだ。私も呑んでいた気がする。 ちなみに、隣との間仕切りは襖だけであったが、大家さん(地方公務員)の親戚とかの青年(?)は大人しく、 2年弱の間、顔を見たことも声をかけたことは一度もなかった。》


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