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大学時代+α 折々の感慨など (日記より)  関連画像を追加(09・10・06〜)

〔昭和37年(1962)19〜20歳〕〈一浪ののち、再び大学受験で上京〉

〈3月1日、木〉夜 東京・文京区で  私は一体バカなのであろうか? それとも……いや、それともなどといえる余裕があるのだろうか。私は何を考えているのだろうか。〈大阪・茨木を出て〉ここへ来てから6時間余……私は一体何なのであろうか。  目の前に私が持ってきたハサミがある。そして、それは凶器ともなりうる。(以下略)

〈3月3日、土〉 ラブローン!〔失恋〕Lovelorn! (自由詩112行)…〈下宿の小母さんの計らいで初日に食事をともにした、石川県から上京した現役の東大受験生に…〉

〈3月9日、金〉 "いらだち"Irritation イリテイション (130行)

〈3月10日、土〉早朝  "無題"

〈3月11日、日〉 "無題"続き  貴女は遂に去っていった 風のごとく 私の目の前から消えてしまった (以下略、計184行)

〈3月14日、水〉早朝 早大R文1次合格内定す!

〈3月15日、木〉夜半 …早稲田大学学生身上記録に、自己の性格を評して、穏和・愛他的・批判的・ペシミスティック と記す。

〈3・21〉「生活は貧困でも 恋をするとき 人は"貴族"となる」と紙に書いて壁に貼る

3/31  東大小石川植物園(入園料30円)、新宿御苑×、神宮外苑

 引越しは31日午前中80円タクシーでやったが、案外簡単に済ませることができた〈タクシー代440円、東五軒町→鷺宮〉。 その後、前の下宿で親しくなったN君(三重県出身)と小石川の東大植物園へ行った。 彼の家は林業と農業が主で、教育大卒業後(今回はスベル)、田舎に帰って農業問題と取り組むか教育(辺地の)に従事する夢を持っている。 私はそういう人間をえらいと思う。だれでも嫌がることをすすんでやろうというのだから、敬服の至りである。 それに私も、Kちゃんの運命に関連して、農家や封建的考えの残存に関心があり、それを文学によって批判しようと考えているので、 話は合うのだが、やはり私の見解には実際的な苦悩がない。以後、彼と新宿御苑に行ったが、時間がなく、 更に神宮外苑まで歩いて、硬式テニスを少し見て帰った。その夜、下宿に最後の荷物をとりに帰って、こちらに来た。

〈4・6〉以後、毎日大学およびその周辺に行く。4日には、千代田区の学徒会館まで行って、アルバイトのことで調べる。 手続きがかなり面倒だが、そんなことを言っておれる身分ではない。 また、ずっと歩いて神保町の古本屋で、岩波のロシア語辞典を実に感激をもって手に入れた。

5/22  日ソ協会創立5周年 ガガーリン少佐歓迎 記念集会(共立講堂)

 夢多き新入生にとって何事も見聞する必要があった。ガガーリンが早稲田に来たときは列をなして会場へ入った。 そのとき、私の向学心をそぐべき事件が起こった。すべては幻想だった。〈65・11〉

5/30〜 東京自主上映促進会(狸穴のソ連大使館)

 ソ連大使館で週一回、ソ連映画をやっていた。私は外国語を喋るのはいやだし、面白い映画でもなかったのだが、 一緒に行く中に、R君(H.Y君を偲ぶ)がいたために、そこへ通った。〈65・11〉

6/2、3  早慶戦(東京六大学春季リーグ戦、神宮球場)〈学生券〉

 初めての早慶戦で期待して見に行ったが、当時早稲田は全く不振で、私は勝った試合を見たことがなかった。〈65・11〉

8/1〜11  東北旅行(周遊券・学割2640円)、その前は新宿・らんぶる、東京文化会館に

 《学友と二人のはずが、もう一人が便乗し松島まで着いてきた(彼の旅費は入場券三枚で30円)。 東京(夜行)⇒仙台(七夕前夜)・松島(東北大学の寮100円?)⇒平泉(中尊寺拝観料・学生券100円)・盛岡(岩手大学北駆寮140円) ⇒渋民村・青森(青函連絡船待合室で泊、ねぶた前夜)⇒十和田湖(見知らぬ民家に泊)⇒秋田(秋田大学学芸学部啓明寮60円) ⇒男鹿半島(前日に同じ、竿灯)⇒天童(同級生宅を訪ねる予定が、宇都宮と聞いて里心が出た相棒はそのまま帰宅。 東京から女性一人到着、3泊)⇒山寺⇒蔵王⇒東京》

 8月13日・月、午前 旅行から帰ってのち記す/"脱皮"に関して/私たちが6月のさる深夜 銀座の喫茶店で、 また都内を騒ぎ歩いているときに/私が受けた感銘、感激/それが私に有効だったことは確かである。 /"特殊"な成長をして来た私にとって すべてが目新しく楽しくあるのは 別段不思議なことではないだろう。 /だが、それらは早く卒業すべきものなのだ。(以下略)

 8/− 少年野球の審判をやったと言ったら、お前、野球を知っているのかと言われた。尤もな話だが、侮辱も甚だしい。 半日、300円のアルバイトだった。

10/13  早稲田大学田無寮創立1周年記念ダンスパーティ(杉並区方南会館)

 私の大学生活は、この寮で始まった。私のような気むずかしい人間が生活するのは多大の努力を必要とするところであったが、 自分をむなしくするのも一つの便法と考えて、何とかやっていたが、それも長くは続かなかった。〈65・11〉

11/10  早稲田大学創立80周年記念 フロイデハルモニー第5回演奏会 交響曲第9番「合唱」指揮・小澤征爾(東京文化会館)

11/22〜 三田祭および早稲田祭

 十一月下旬に、時を同じくして早稲田祭と三田祭が行われる。これ(三田祭の案内状)は、H君からの招待で、 三田に行き、次いで、私が早稲田に招待したときのものである。〈65・11〉

〔昭和38年(1963)20〜21歳〕

4/17  東京都知事選挙・都議会議員選挙・田無町議会議員選挙(田無中学校)

 初めての選挙、私は知事のだけ投票して(阪本勝・前兵庫県知事が立ったので)、後は放棄した。 以後、選挙は私には関係がなくなった。〈65・11〉

11/-  多磨霊園 吉川英治の墓など

 私はひとりでよく武蔵野を歩いた。その一つで、この墓地には二、三度行った。 大きな静かな処で、人気の少ない公園の感じであった。〈65・11〉

12/26  名古屋テレビ塔

 寮生活二年目、同室のO君と名古屋に遊ぶ。この年、彼の存在は私には大変有意義だった。〈65・11〉

〔昭和39年(1964)21〜22歳〕

1/26  岡本太郎展(西武百貨店)

 『岡本太郎の個展を見る』 私は先に彼の『今日の芸術』という著書を読んでいた。 この展覧会は、今朝知って、午後すぐ出かけたものである。彼の抽象を見ていると、始めのうちは引き込まれるのだが、 だんだんとその対象に向かって、ぶち壊したくなるような気分に襲われるのだった。 会場のバックの黒は実によく作品を引きたヽせていたが―実際私自身そう感じたのだが―その黒一色が圧迫感を感じさせるのかもしれない。 私は少しとっぴなことをやろうと思って、人々が数間離れて見ている、その作品の前をゆっくりと彼らの顔を見ながら、 歩いてみようと思い、歩き出していると、突然岡本太郎その人が現われて、いちばん大きな絵の前に立って、 カメラにおさまるのだった。私は初めて彼を見たが、小柄ながら、実に精悍な感じで、全身これエネルギーの塊のようであった。 カメラマンの注文に応じて、ポーズするとき、彼はネクタイをなおそうとしたので、 私はすかさず(つむじを曲げたつもりで)無い方がいいんじゃないですかと言った。 彼は何か答えたようだが、私には聞きとれなかった。そのとき彼がしていたネクタイは、 自作のデザインであることは言うまでもない。なお、彼がその前に立った絵は"予感"という題のもので、 私も気にいった作品だった。その後、彼のサインのあるパンフレットを手に入れた。〈1・26〉

4/-   武蔵関公園、東伏見稲荷、小金井公園など

 4月。寮の部屋替えが行われるので憂ウツであり、またその機械的な決定の仕方も気に食わないでいると、 案の定、あまり気に入らない下級生と一緒になった。…ある晩、寮長と副寮長(共に学生)がやって来て、 何かと文句を言った挙句、結局は体のいい退寮勧告であった。そういう下らない手合いにかヽずらわるのも馬鹿らしく、 またノイローゼ気味で不眠症にもなり、思うように勉強もできないので、ついに寮を出ることに決めた。 …名残り惜しくもあるので、武蔵関公園、東伏見稲荷、小金井公園等へひとりで花を訪ねて行った。 それぞれ私の好きな処であった。〈10・20〉

5/-   雑司が谷墓地 夏目漱石の墓

 5月。中旬、田無寮を出る(在寮丸2年)。雑司が谷の素人下宿に入る。墓地が近い。(寮の)管理人夫妻に惜しまれたが、 もはやどうすることもできなかった。親しい友だちもいるが、仕方がなかった。(ここは)大学に近くて便利だが、 住んでいるうちに、色々といやなこともある。しかし、それも他人の家ゆえ、仕方のないことだ。 墓地にはよく行く。漱石の墓を見つけたときはうれしくなった。〈10・20〉

5/30,31早慶戦 優勝! 神宮から新宿まで行進〈学生券30円、一般外野券50円〉

 6月。早慶戦に連勝して優勝。今まで見に行ったどの試合も勝ったことがなかったが、入学以来初めてのことで感激した。 …ある夜、M君と志のぶへ行った。前々から話していた処だ。そしてすっかり気に入ってしまった。 次に私の誕生日にも行ったが、あいにく土曜で混んでいて、つまらなかったが。以後、最も若い常連になってしまった。〈10・20〉

7/-〜8/-運転免許(実地試験、茨木の教習所)

 アルバイトをしながらの教習所通いだった。(アルバイトは)簡単な事務で、およそヒマであった。 春についで二度目で、みな顔を覚えていてくれたので、気が楽だった。比較的愉快に過ごすことができた。 私はいつもニコニコしているといわれて、評判も悪くなかったが、たヾそれだけのことであった。〈10・20〉

10/1  わせだ寄席(大隈講堂)

…O君と会い、志のぶで飲む。マヽさんに、Yちゃんがいる。相変わらず胃の調子が悪いという。 酒を売るが、色は売らないという。殊勝、その方が気持がいい。初物の松茸を食べる。 書き忘れていたが、志のぶに行く前に、わせだ寄席を聞いていた。面白かった。〈10・2〉

10/4  護国寺 お茶の会

 昨日の午後、M君を誘って、護国寺へ行く。初めてであるが、何かお茶の会がちょうど終ったらしく、 和服姿のお嬢さんや婦人たちがぞろぞろと歩いていて、とても印象的だった。 ここの墓地にも行ったが、由緒ありげな墓ばかりであった。〈10・5〉

10/5  ダリ展(東京プリンス・ホテル)

 先日、ダリ展を見に行く。幻想美術というが、決してそうばかりとはいえない。観るものがそう解釈するのは勝手だが、 あれは完全に計算されて描かれたもので、作者自身が自分のために楽しんでいる感じで、不愉快である。 …会場の新築されたプリンスホテルも安っぽくて、とてもいただけない。…しかし、芸術というものは、必ずしも、 他人の共鳴・共感故にあるものではなかろう。それを逆に考えてみると、他人が少しも注目せず、 貧しく自らの信ずるところをやり遂げようということはさらに苦しいことである。〈10・8〉

10/9  北海道旅行(函館、支笏湖、洞爺湖、札幌、層雲峡、大沼)

 《大学〈記念会堂〉がオリンピックのフェンシング会場となり、長期の臨時休暇となるため、M君と北海道旅行に…》 Kにソ連製のカメラを借りる。TBSまで行って、もらう。オリンピックの側面を見る思いだ。私には関係はない。 何かが起こる、何事もなくして終ることはない、さらに何も残さずに終ることはない。10・8《旅行記と写真集は別に作成》

11/7  藤沢・T家

 ドストエフスキー論は是非ともやらねばならない、死活の問題である。それから、藤沢の方も、うまくいけばいいと思う。 これは全く願ってもないチャンスで、運が向いてきたと思う。11・6」 「昨日は、藤沢にTさんを訪ねる。まったく静かな環境で、よく整った庭のある大きな家であった。 気持のよい人で、色々話を聞いてくれた。あんな落ち着いた立派な処で、思う存分読書したり、物を書くことができたら、 どんなにいいかと思う。後で手紙でお願いしようと思っている。〈11・8〉
 Tさんから返事が来た。私は半ば絶望していたのだが、とても丁重な便りをいたヾいてうれしく思っている。 それは決して私の思っていたようには行かないが、何とかなるかもしれない。〈11・27〉

〔昭和40年(1965)22〜23歳〕

1/30  映画「サーカスの世界」ジョン・ウエイン、C・カルディナーレ、リタ・ヘイワース

2/10  十日町・祖母長野アイ米寿の祝い

 試験も無事済んだようである。最後のは羽田から大急ぎで車を飛ばして受けたもので、スリルがあった。 この日(4日)、青函トンネルの掘削機を買い付けるため、ヨーロッパへ行く(親戚の)Eさんを見送りに行ったのである。 前夜から銀座の旅館に泊まった。始めは見送りに行けぬかと思ったが、行って本当によかったと思う。 また10日は十日町のおばあさんの米寿の祝いに、母の頼みで、テレコやカメラ道具一式を借りて出かけた。 大変な荷物だったが、いとこのCさんと一緒だったので、道中は楽だった。しかし、帰りは連絡が悪く、鈍行で来たので、 大いに疲れた。…そのほか、保証人のNサンの具合が悪いそうで、心配である。〈2・15〉

3/-   映画「アメリカの影」「バワリー25時」

 技法的には、ともにすばらしい。より真実であるという意味で。そこには、黒人を憎み差別しても、黒白の混血には、 差別を設けないという、きわめて人間らしいエゴがある。しかし、いずれにしても悲劇である。 少数者は、多数に勝てない。尋常の方法・手段に頼る限りにおいては。〈4・3〉

3/-   映画「金庫破り」(英)

 ユカイな喜劇である。また、皮肉がたっぷりでよい。たヾし、トプカピと類似の点が気になる。〈4・3〉

4/-   民芸「開かれた処女地」

 長いもので、少々中だるみをしたが、面白かった。確かに、作者の性格描写はうまく行っている。 とくに、あの爺さんは愉快だった。〈4・23〉

映画「人間の絆」

 キム・ノヴァクは哀しい女だ。モームも人間の絆とはうまく言ったものだ。 憎んでいて決して抱きたいとも思わない女をどうしても放っておくことのできない男の哀しさ、よく判る。〈4・23〉

5/-   映画「東京オリンピック」

 競技:人間の肉体を極度に酷使するほど、残酷なことはない。写真:きれいなのがあった。 海岸ぞいの白波と聖火ランナーの場面が印象的だった。人間:外国人は、運動選手でも美しいのは、どういうことだろうか。 評:一つの映画として見たとき、そのよさを発見できない人は不幸である。〈5・10〉

7/-   映画「女と男のある限り」(伊)「歓び」(スウェーデン)

 (小学校で同級の)T君と見る。後者はなかなか好い映画であった。T君は、将来大した人物になると、 私は折り紙をつけたいのだが、どうもやることなすこと、器の小さい人間のようで、腹が立つ。 …8日には、河野(一郎)さんが急逝して、私は複雑な気持だった。単に実力者といっても、 あれだけの人物はもう出ないのではないかと思うと、全く惜しい気がする。そのことをHさん夫妻とも話し、 また入社試験の人物評"佐藤栄作"の中で、少しふれたので、いくらか気持が楽になった。〈7・12〉

9/17  国立国会図書館

 閲覧室で。本来、私語や雑音が禁じられている場所なのに、三十分毎に天井のスピーカーから、 遠くの地の台風情報を流している。その度に、本に向かっている人々は、一斉に作業を中止させられてしまう。 誰も頼みもしないのに、この親切心というか、役人的というか、たヾたヾあきれてしまう。 それが証拠に、誰も席を立とうとするものはいない。

9/22  フランス近代絵画の流れ フォーブ60年展(日本橋・高島屋)

 現在、われわれがあまりにも見なれている絵画の源流ともいうべきものである。それは決して野獣の絵ではない。〈9・24〉

同   映画「麗しのサブリナ」オードリー・ヘップバーン主演

 オードリー・ヘップバーンの映画は、どれも似たようなもので、とくに目新しいものは求められないが、 たヾ彼女自身の演技のうまさや女としてのかわいらしさの表現の味、それに男の共演者がいずれもうまみのある老練な演技者だけに、 いつも飽きさせない。(ハンフリー・ボガート、ウイリアム・ホールデン)〈9・24〉

9/29  映画「8 1/2」フェデリコ・フェリーニ監督、マリチェロ・マストロヤンニ主演

 長時間で、いさヽか疲れた。何だか作者に一人楽しまれたようで、ねたましさを感じる。

10/4  戸塚児童公園?

 日曜日の子どもの公園。子供は大人の話に首をつっこんでも充分理解を示すのに、格好の場が与えられヽば、 すべてを忘れて遊びまわる。そこは交通規則を自然に覚えるようにしたゴーカートの施設を中心に、住宅地とか工業地帯、 商業遅滞とか、その象徴的なものを置いたヾけで、彼らは充分納得する。 そういう点では、この子供の想像力はもはや大人には見られないものである。ゴーカートは有料だが盛況で、 女の子も上手に乗っている。中に足の悪い子供がいたが、彼らは自分の身体的欠陥など少しも気にせず、 充分うまくやっている。劣等感など、子供の時代にはないらしい。またギャングが出てきたのにも驚いたが、 その情婦まがいの女の子がいて、せっせと弾を拾ってやっているのには、尚驚いた。(以下略)

10/11  映画「雨のしのび逢い」「恐怖の報酬」(大隈講堂、100円)

 最近見た映画『雨のしのび逢い』 モローおばさんのもので、期待していたが、大いに失望。 こういう映画は内容よりもまず女優の魅力を味わいために見るのである。〈10・31〉

映画「禁断」「女を引き裂く」(スウェーデン)など

 『消された顔』『罠を張れ』 こういうスパイものは、その非現実的な物語と主人公の痛快な活躍ぶりがとりえである。 それだけに洗練さが要求される。あまりグロなものは、わざわざ見たいとは思わない。 『女を引き裂く』 この種のものはもう底をついて、種切れの感じである。尤も、二つか三つしか見ていないが、 どれもこれも大差ないものと思う。併し、これはあくことのない男の欲望をくすぐるという点で、 この種の映画はいつの世にも生き続けることだろう。健全とも不健全とも判断のしようがない。〈10・31〉

10/31  早慶戦(4−3)優勝!

 早慶戦を観に行く。大接戦の末、4−3で勝ち、優勝を決める。二度目で、卒業の年を飾れたのは何ともうれしい。 それにしても沢山の人間が早慶戦というだけでくり出すものだ。そのエネルギーは莫大なものだろう。

11/4  劇団・雲 第8回公演「罪と罰」福田恆存脚色(読売ホール、550円)


11/5  芦花公園

 午後、急に思い立って芦花公園へ行ってみた。以前はよく上林 暁の『武蔵野』を持って、あちこち行った覚えがあるが、 この下宿に移ってからは、そういう散策、一人歩きも忘れてしまっていた。 田無にいたころと違って、やはり人間くさヽの多いここでは、近くの雑司が谷墓地へ行っても、余り安らぎはない。 そういう中にいると、静けさとか安らぎを求めるという心も失われるのだから、環境とは恐ろしいものである。(以下略)

同   明治天皇展(京王デパート)

 明治天皇展をやっているのでのぞいてみた。どれもこれも天下一品、最高のものであろう。 明治百年だから、こういう催しをやったらしいが、最初の私の危惧も大したことはなさそうだ。 見物して、たヾたヾ驚かされるばかりで、それ以上の考えは人々の頭には浮かばないだろうから。 中国製の刺しゅうには誰も感嘆していた。確かにすばらしいものだった。横山大観の簡潔な蓬莱山之図は印象的だった。(以下略)

11/9  新宿御苑・菊花展〈学生30円〉

 朝は、激しい雨が降っていた。すべてを洗い流すような雨である。窓の外にそれを聞いて、実際に目を覚ましたのは、 正午過ぎであった。…午後、新宿御苑に菊を観に行った。もう夕方近く、陽はかげって、道が軟弱であったが、 そういう悪条件を物ともせぬかのように、花盛りの菊は見事だった。こういう生き物を、まるで絵を描くように、 一種の芸術化した様は、驚嘆に値する。今まで、菊といえば、ごくありふれた種類のものしか浮かんで来ないが、 実際に見てみると、実に様々なものがあるのに気づく。大菊の無数といっていい程、花をつけている様、 小菊の色とりどりの手網模様、嵯峨菊とか丁子菊など、確か吉田兼好は『徒然草』の中で、 こういう人工のものは痛々しく不自然だと述べていたが、しかしその見事さは、人間中心に考えれば、実に美しいものである。(以下略)

12/- 森繁久哉らの喜劇 演題・劇場不明

 先日、久しぶりに森繁等の喜劇を見た。これは、いつも面白いが、もう一つのは力みすぎて、つまらないものだった。 日本には、日本的な題材のものしかうまく作れないようだ。〈12・3〉

〔昭和41年(1966)23〜24歳〕

2/3   レストラン大都会 ブイヤベース〈300円〉

 暖かい天気で、気分がよかったが、学校の方は相変わらずのクラス討論等で、全くもって下らない現実である。 私自身、このストにまきこまれたつもりはないが、その影響が全然ないとはいえない。全く気分的に落ち着きがなくなり、 喫茶店に入ったり、映画を見たり、酒を飲んだりで、金使いが荒くなり、手のつけようがなかった。 そして、タバコを一人前に喫うようになり、ついに我慢しきれなくなって、クラス討論に於いて、 先月三十一日より発言をくり返し、動に対する反動としての立場を明らかにした。 私はこのまヽ何事も表明せずに卒業していくつもりであったが、彼らの闘争の無意味さと試験を自ら放棄して自殺的行動をとることによって、 学校側ならびに社会に対しての早稲田大学の学生としての権威を失墜する恐れが大いにあると考えたからである。 またこのストによって、余儀なく参加したものの自由を無視する集団的行動の行き過ぎを批判し、反省を促したしだいである。(以下略)

3/2   井の頭公園 紅白の梅

 だいぶ暖かになった。このまヽ寒さをぶり返すことなく、春が来ればよいと思う。ここ十日間ばかり、 ずっとM君の弟の大学受験等で、行動をともにしており、いさヽか気分的にも疲れた。 彼は未だ子供で甘ったれているが、私の弟子にしてくれというのには、少々まいった。 私自身、海のものとも山のものとも判らないのに、弟子をもってどうするのか?  しかし、いずれにしても、弟子というのは必要なものである。それだけ人間的な幅も出てくるし、責任も伴う。(以下略)

 4/2 いつの間にか十何年かの学生々活に終止符が打たれた。長いようでもあり、短いようでもある。 その間、どういうことが起こり、どういう風に考えてきたか。実に様々な事件があり、様々な感慨があった。 特にこの三ヵ月間というものは、まるで狂った戦乱の巷に身を置くような空虚で腹立たしい時期であった。 しかも、それは未だに何ら解決を見ないばかりか、ますます混乱に陥り、悪化の道をたどっている。(以下略)

4/16  映画「小間使の日記」(仏)ジャンヌ・モロー主演

 それは充分に用意された、きわめて自然なものだった。 同時上映「憂国」三島由紀夫(新宿文化 アート・シアター・ギルド、230円)

〈5・8〉 夜もだいぶ更けた いよいよ最後の晩である 雑司が谷墓地近く、丸二年住んで 何の感慨も起こらないのは、 正常なのか 狂っているのか。(以下略)

〈5・13〉 新宿・柏木の新居にて ここへ来てから早五日経った。先ず先ず快適な生活だ。 私には自分のやりたいことをする最後のチャンスが訪れたわけだ。長い間待った。途中で放棄したくなったこともある。 そして、すべて安易に流れてしまいたい衝動に駆られたこともある。(以下略)

〈5・20〉 階上の女たちの騒ぎようは、まるで天井裏で、ねずみがマラソンをやるようなものである。

5/28  バン・クライバーン・コンチェルト(東京文化会館、招待)

 久しぶりの演奏会 忘れかけていたものへの復帰。

5/31  国際大魔術団(後楽園アイスパレス、招待)

 生まれて始めての 額にあぶら汗。

9/16  映画「バルジ大作戦」〔シネラマ〕(OS劇場、阪急友の会)

 田舎のオバはん連中が多数見に来ていたのは、何とも奇異なものだった。彼らは暇だからか、 あるいはこういう映画が好きだからか・・・。

〈9・21〉 S社を五ヵ月余りで辞めて、ここ諏訪の森に来てから、十日になる。 …私が辞めたのは、彼らが考えているように、女の子のためではない。単に親しく話しているだけで、 何か深い関係があると勝手に想像されたのでは堪らない。私が如何に女性に好かれようと、 それで直ぐに関係が出来るものではない。…私がM嬢と親しかったのは確かだが、彼女は3年以上そこにいても、 決して理解されなかったというが、その人と話をして意見が合った私を理解できないのも、当たり前であろう。 …彼らにとって、私が辞めたということが、いくらか衝撃的であったということは、 満更、私の存在が無益でもなかったということであろう。…会社の女の子二人から結婚を迫られる処まで行きそうになった。 …M君に頼まれて、武者小路実篤の作品評を二、三書いた。一万円になるという。


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