とんだエッセイ 3月下旬号
「同期会」
その年いっしょに卒業したのは、他のクラスの一人が急死したため、4クラスの199名であった。大阪府下にある母校は、
男子の中高一貫校で、そのほとんどが大学へ行ったのだろうが、京大至上主義という傾向が強く、それは今でも残っているようだ。
当時の仲間たちは、阪大、神戸大、名大のほか、大阪京都両府立大や市立大学に少々、後は関西の名門どうやん(同志社)に、
りっちゃん(立命館)、そして、くぁんくぁん(私の子どものころ、老人は関西大学を"くぁんだい"、関学大を"くぁんぐぁく"と発音していた。
だから、対抗戦は"くぁんくぁんせん"といったところだろうか。早慶には各一人、ライバル校の彼とは一年生のときに大学祭を相互訪問して以来、
一度も会っていない。
この14日、久しぶりに在京メンバーによる同期会があった。20人近くいるのだろうが、ホテル内にある中華料理店に集まったのは12名である。
いま何もしていないのは二人だけらしいが、私もその仲間に片足は入っているのではないかと思うほど、社長業や新しい事業に取り組むものをふくめ、
会社勤めも忙しそうだ。
しかし、悠々自適のN君は、高校のころチェロをやっていたが、いま水彩画をやっているらしく、会場に来る前、
九段会館や団子坂の桜をスケッチして、翌日メールで披露してくれた。才ある人は何でもできるという見本である。
他に、一部上場会社の社長や"伝説の(為替)ディーラー"というのもいる。いま何かと話題になっている"派遣"問題だが、
人材斡旋会社の社長は急成長の真只中だそうだ。
私は、彼らのように関西生まれではない。中学高校に浪人の7年間だけの"仮住まい"、あとは東京という人生だが、
実業の世界に住む彼らとのちがいは、仕事の性質だけでなく、いつも浮いた?存在である。
そして、話がゴルフに移れば、もうほとんど私だけが取り残される……。昨春、数人で行った5万円もしない韓国旅行は楽しかったらしく、
また新たに企画も立てるという。
ここでも、なんとなく腰が重くなるのは、天邪鬼のせいではなく、長期の"団体行動"が、億劫だからではないかと、
自己分析している。だから、親睦を兼ねた会合は、2時間程度が限度であろうが、この夜は4時間近くになっていた!!
「お別れ会」
その週末、いよいよ大学の寮が取り壊されるというので、いつもは秋にやる"同窓会"をかねて、寮のちかくにある、
普段は縁のない会社に会場を借りて、「お別れ会」が催された。
4階建ての寮は37室(2人部屋)で、74名が定員である。これまで44年間で5百数十名を送り出したそうだが、
この日の出席者は150名を超え、家族を入れると200名近くに膨らんだ。なかなかの盛況であった。
体育館を半分に仕切ったような会場中央の長いテーブルには数々の料理が、まわりの丸い小テーブルにはビールや焼酎に日本酒が並ぶ。
子どもたちも、大人顔まけで料理をつついている。
一方、卒寮生を見ると、来賓(学生部長)の祝辞もあまり聞かないで勝手に喋っている若い人たち、写真をとる人、
歓談するグループ、遠方からの夫婦連れや家族連れも多い。
同期は21名登録だが、出席は10名で、遠方はいま何かと話題の宮崎県から、「そのまんま」来たそうだ。
寮には2年もいなかった私だが、先輩やあまり年の違わない後輩が声をかけてくれるのは、ありがたい。
なお、同期に大学教授(博士)が2名おり、うち一人は会員4万名というある学会の会長に就任している(任期1年)。
官庁・ゼネコン・官学中心のなか、私学出身の会長は初めてという快挙であると、私は後輩に押されて、マイクを握って、
彼を紹介したのだった。
学年ごとに集まるのはどこでも見られる光景だが、私は仲間を離れて、ちがうテーブルに行き、知らない人たちとビールなどを注ぎ合う。
話すことは、今の雰囲気、会場について、寮のたたずまいなどだが、いつの間にか、政治や日本について深刻にならない程度に話す。
ついで、ローストビーフを皿に盛っている制服の男子高校生に声をかける。系列校ではないが、大学そばにある高校に通う彼は、
悪戯がばれ校名を聞かれると、「早実です」と答えていたが、今はそれもできなくなったと苦笑い。
一方、「いじめにあっていたので、学校を変わり、いまは幸せです!」と強調していた。私は私学に通わせる親のことを思い、
「親に感謝しなくちゃ」などと、余計なことを口走ってしまった。
現役の寮長(3年生)などとも話す。寮費がわれわれの入寮時と同じ3千円と、一度も値上げされなかったのは"怪挙"だが、
いくら古びて環境がよくないとはいえ、私学に通う学生には天国であるらしい。
新しくなる寮は、外国からの留学生も入れるように、人数も倍ぐらいになるそうだ。
新宿に戻り、二次会(同期会)をやるというので、会場を早めに出て、寮の最後の姿を見にいった。
多少の感傷めいたものはあったが、周りの景色もさることながら、やはり昔の姿はまぶたの奥にとどめておくべきであった。
(《ミニ自分史》(5)「田無学生寮」その1参照)
「修了式」
その次の週末、今度は若い人たちを送る会に出た。私は今年で、9回目の列席である。
世の中は、実感として不況である。なかでも出版界は、インターネットやケータイ文化に押されて、売上げが伸び悩んでいる。
書籍はたまにベストセラーが出て、全体としては微増だそうだが、やはり構造不況ではないか。雑誌については、もう言うべくもない。
そんななかでの"出版学校"の修了式である。私は今年度、初めて後期の選択授業を担当したが、年々、生徒の数が減っているのは、
カリキュラムの問題というより、少しは出版界の情報を察知しているからであろうか。
出版を学ぼうという意欲は、よしとすべきだが、教室で彼らを見る限り、"学生生活"の延長という気分でしかなく、
欠席者も多く、後半になると単位が取れるかどうかを心配したり、ある遅刻常習の男はテキストも買わず、
授業の終わりごろに来て、堂々と文庫本などを読んでいるありさま。しかし、私は、そんな彼らを無視した。
総じて、この先生は甘いとか適当にやれば卒業資格は取れるなどという"判断力"には長けていても、
貪欲に学ぼうという意欲が感じられないものを相手では、熱意もこもらない?!
さて、この1年間の昼間部在籍者は20数名、修了者はその85%だという。うち勤務先が決まっているのは13名、
この日は5名が欠席した。われわれ講師陣も出席者はいつもより少ないなか、これまでとちがい、
一人一人に修了証を渡すときに、ハプニングが起こった。五十音順に呼ばれ、証書を受け取ると、
お義理でささやかな拍手をするのだが、最後の女性のとき、渡すべき証書が用意されていなかったのである。
その就職先には、何とかインパクトと記してあったので、私はすかさず「インパクトが強いねえ!」と、つい口を滑らしてしまった。
ほんとは、しまりのない、お粗末極まりない場面であったのだが。
講師の祝辞やはなむけの言葉も、修了生は聞いているようだが、分かっているのかどうか。
それは、年輩の講師側にもいえる。以前、キミたちがここで学んだことは実社会ではほとんど役に立たない、
と古びたコトワザ「タタミの上のスイレン」で例えたものがいたが、五十歩百歩ではないか。
《「タタミの上のスイレン」は50代の女性でも「畳の上の睡蓮」と思っていることを後で知ったが、
正しくは「畳の上の水練(泳ぎの練習)」。また、"五十歩百歩"も今ではちがう解釈があるとか》
「花見の会」
これは、昨夜の話。出版界にはいろんな会合がある。そのひとつに、午歳生まれの出版社、取次会社、
書店主など業界横断的な会があり、年二回、春と秋に会合を持っている(今回は、38回目)。
まばらなサクラの下で、場所取りをする青年や、すでに宴会も始まっているグループなどでにぎわう上野公園を通って、会場に向う。
寛永寺の午後6時を告げる晩鐘の音とともに始まる、この店での会合は今年で3回目。
夜桜が見事で、満開の日に合わせるのが幹事の腕の見せ所だが、今年はまだ三分咲き、「会費は当然、3割引だね」と言ってみたが、
取り合ってはくれなかった、当然か。
最年長は大正7(1918)年生まれの89歳、次は昭和5(1930)年で喜寿を迎え、42年生まれ(65歳)が最大の人数となり(出席19名、他と違って女性は一人もいない)、
54年生まれが続き、次の66年生まれは、ただいま一名のみ。
最年長組は4名いるが、足腰が弱ってとか病院通いで全員欠席のよう。12歳下の喜寿組も体調不良、外出は無理、病院ばかり、
歳は取りたくないもの…と欠席の理由がならぶ。しかし、「当日に欠席では幹事に迷惑をかける」と足を引きずって来られた方に、
私は"床柱"が背もたれ代わりの席を譲る。やはり「風邪で欠席」のはずだった御大も、青い顔をして現れ、帰るころには赤ら顔となり、
私と毒舌のやり取りをして再会を誓う。
初めての出席という同年組とは、ひとしきり『戰線文庫』がらみで、われわれの年代こそ戦争のひどさ、無意味さを、
後世に伝えなければと熱っぽく語り合う。その隣の同年も、若い人に俺の生まれた時代を説明するために、
その日の新聞のコピーと"米穀通帳"を持っていると、わざわざ取り出して見せてくれた。
もの書きは私一人だけのようで、たいがい何かを持っていくが、今回は昭和5年生まれ、
33回忌を迎える梶山に関する「梶山季之と月刊『噂』」のチラシを配った。これは午前中に京都の版元(松籟社)から、
急いで送ってもらったもの。
懐かしいねえとか、いい時代だったとか、おまけに「橋本さん、いつもいい仕事をするねえ」などと、私にまで御世辞を賜った。
また、「梶山さんの『黒の試走車』は最高傑作だよ」という人まで現れる始末。
ただ、酒を飲んで、大騒ぎをするだけではなかった、の図でした。
(以上、07年3月27日までの執筆)
kenha@wj8.so-net.ne.jp