「父と大連・満鐵…」

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"「父と大連・満鐵…」を設けるにあたって 2008年2月3日 橋本健午"

〔はじめに〕
 男の子にとって、父は反発する存在、ライバル、超えるべきもの、と多くはさまざまな葛藤を抱えながら、 その背中を見てきたのではないかと思います。

 父54歳のときに生まれた私は年が離れていたこと、また中学高校時代は離れ離れで、そのあと同居した1年ほどで見た父は"隠居"然とした佇まい、 いつも読書と書きものをしているという雰囲気でした。
 したがって、何となく"鬱陶しい"という印象もありましたが、冬の寒い夜にトイレからなかなか帰って来ないときなど、 倒れてやしないかと蒲団の中で密かに心配したこともたびたびでありました。

 二人だけでまともに話したのは大学4年のとき、77歳の父が上京して、何人かの"旧友めぐり"に私を連れ歩いたときで、 これが最初で最後の機会でした。まったく忘れておりましたが、私の就職支援のためだったようです。 "父"はいつまで経っても"子"を心配する存在であることを物語っております。

 さて、この欄を設けるに到ったのは、父橋本八五郎(1888−1976)について、07年夏にある大学教授からご連絡があり、 大連(現・中国東北部)時代に、父がある方(中国文学者。のち大学教授)にあてた20通以上の書簡の解読を依頼されたことが発端で、 いまもその作業を進めておりますが、毛筆のくずし字は容易に読めません。

 父について、今おおよそ分かっていることは明治45年に大連にわたり、小学校の訓導(教師)を皮切りに、 満鉄関係のいくつもの図書館に勤めていたこと、大正11年、34歳のときの著作『満洲より母國へ』(編者名…橋本嘯天)を出版したこと、 その前後に満鉄図書館関係の雑誌編集に携わり、同じく読書会関係の会報に寄稿していたことも、当時の資料などから明らかになりつつあります。

 大正から昭和前期にかけてのことですが、読書や図書館について、父のというより当時の状況も伝わってきます。 『満洲より母國へ』には大連その他の事情、人々の暮しなども記されております。それらをご紹介できればと思い、 あらたに「父と大連・満鐵…」を設けた次第であります。

 さて、本日は父の誕生日でもあり、今年は偶然にも生誕120年ということにもなります。

 本欄が今後どのような仕儀となりますか、不確定要素もあり何ともいえません。 ともあれ、ほとんど何も知らなかった"父"を発掘することは"子"としての責務だと思い、作業を続ける所存であります。 どうぞ、よろしくお願い申し上げます。  (2008・02・03 橋本健午)

2008.02.03の雪景色/自宅より撮影
今朝の雪景色/自宅より撮影

 まずは、「これまでの父に関連するもの、その他」として、《ミニ自分史》に掲出したもののリスト、 および旅行記「中国旅行(大連・上海/5泊6日) 1991年」を掲げておきます。

◇ 『満洲より母国へ』〔編者:橋本嘯天〕 その1
◇ 『満洲より母国へ』〔編者:橋本嘯天〕 その2
◇ 『満洲より母国へ』〔編者:橋本嘯天〕 その3

◇ 中央報徳会機関誌「斯民〈シミン〉」と父
◇ 「讀書會雜誌」表紙コレクション
◇ 父と滿鐵讀書會「讀書會雜誌」について その1
◇ 父の執筆など
◇ 『書香』バックナンバーと父の関連
◇ 父のエッセイなど(大正14,15年発表)
◇ 父と文芸時評(昭和11年9月)
◇寄稿<「圖書新報」→「滿洲讀書新報」1937-1944>その1
◇寄稿<「圖書新報」→「滿洲讀書新報」1937-1944>その2
◇寄稿<「圖書新報」→「滿洲讀書新報」1937-1944>その3
◇ 出版時評「圖書の出版及び供給―外地一讀者の希望― 橋本八五郎

◆ 「父と戦前・戦後… その1」
◆ 「父と戦前・戦後… その2」 new!!

◇ 父梧郎(八五郎)が梶山先生にあてた手紙


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