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「ミニ自分史」(120)*私の出会った人たち 2010・06・15 橋本健午

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 《だれでも、無数の出会いがあるはずだ。それは一回だけのものもあれば、何回何十回という場合もある。 ただ、どれだけ印象に残るかは回数の問題ではないだろう。さらに、相手がどう思っているのか分からない一方的なものもある。 要は、自分の人生にどれだけ影響を与えてくれたか、教えられたか、ということが心に残っているか、ということであろう。
 ここに掲げるのは、そういう方々である。年配者のため、故人となった方が多いが、その“出会い”に感謝するばかりである。 2010・06・15  橋本健午》

1、吉川 昇初代校長…“真面目に強く上品に”

 《1942年生まれの私より、1年ほど早く誕生した旧制高槻中学校の初代校長吉川昇先生は、とてもユニークで、恐いがユーモアもある先生だった。 中学高校の6年間、私はそこで学んだ。今、先生の書かれた膨大な日記の刊行(抜粋)に向けて、その編集のお手伝いをしているところである。》

1)「卒業式における吉川昇校長の言と、その反省」   橋本健午
 英語の教師としての校長と、一個人の人格あるものとしての校長、本来それは不可分のものでなければならない。
 しかしながら、生徒たる我々の接する校長は、まさに充分に尊敬すべきものであった。 また授業を離れて校長の口から出る話も決して我々を失望させるものではなかったのだ。 自覚するとせんとの相違は、我々が本来の目的とする教育によって達成される。
 しかるに、本来の目的、教師として尽くす(?)ということは、決して我々をミスリードすることを意味してはいないのだ。 未成年者(当然に未熟である、あらゆる点において)を教育するのに、私意は許されない。
 我々の目指す処は、たゞ一に大学のみではない。
 人間たること、人格者たらんとすること、それは生徒を扇動することではない。
 教師と校長としての校長、彼と彼はある点において一致し、ある点において相違するとは悲しきことである。

 われらの校長が、よき教育者として我々に与えたものは大きい。またその影響を如何に処理するかは、全く個人の問題である。
 校長としての校長、一個人としての校長の言動に注意しよう。 いかに彼の思想が保守・反動的であろうとも、彼の言葉を聞くときは、利益になるものだけをとろう。
 だがしかし、かゝる事実に気がついたとき、もはや彼は我々の前にはいないのだ。そう、それはまことに皮肉なものである。
 我々は槻校に六年間学び、かつ今は卒業したものとして、これは義務であり、権利であり、名誉とすることなのだが、 “真面目に 強く 上品に”生きよう。
 たゞそれが校長のためではなく、我々自身のために。

 いまだかつて、こういうことはなかったと思う。 校長は巻紙を一字一字かみしめるように、しかも相当な決意をもって、恥ずかしがるように読んだのである。
 我々は、それに異様なものを感じ、聞いていたのである。しかし、たゞそれだけであった。
 彼の偶像は、今日一日のために、もはや過去のものとなりつゝある。(Feb.25.‘61)

<高槻高校卒業記念アルバム2ページ目、校長の大きな写真のある処に、小さな文字で、卒業式直後に書いたものである。>

2)吉川初代校長          橋本健午
 吉川初代校長が辞めたということを耳にして、しばし考えた。
 私は先生の業績やら経歴というものをはっきり知るものではないが、身をもって感じたことは、 その校長という職にありながら、終始教授したということは凡人にできることではないということだ。
 そこに校長先生の偉大さがあるとゝもに、教育に対する熱意があったものと思う。
 私は今年卒業したものであるが、六年前にしても、すでに先生はご老体であった。しかし、その健康さは私たちの眼に見えないムチであった。
 一般的な学校行政や経営方針には不満の多い人もあるだろうが、教壇に立たれる限り、私たちにとっては、生き字引的存在であった。
 私たちの学年は奇しくも先生の最後の卒業の辞を聞いた、最後の教え子にも等しい。
 そういう意味では、めぐまれた方だが、それに関連して、校長先生がいなくなるということから起こる多大な損失について述べてみたい。
 聞くところによると、今の三年生は満足に先生の授業を受けられなかったようだが、逆にそれを喜んでいるのが本心だろうと思う。 それは、先生が単にコワイ存在という印象があるからであろう。
 私の仲間にさえ、“校長の授業”というと、いやな顔をするのが多数いた
。  そして、彼らの予習ときたら、テクストには不幸にして、トラの巻がついていないので、その朝早く来ては、他の人に聞いて、 “一生ケン命”やっているというのが実情だった。それも、もしも他のおとなしい先生の場合だったら、そんな努力はしなかっただろうと思う。
 彼らの考え方は、校長はコワイから、予習はちゃんとやらなければならぬ(中には訳文を暗記しているのさえいた)という、全くの受動的なものだった。
 だから、授業中は緊張してしまって、先生のいわれることが余り頭に入らなかったのじゃないかと思う。 そして「覚えよ」というものは細大もらさず覚えているが、融通などきかなかった。
 私は、比較的英語が好きであったから、英語は一人前の力がついたが、上に述べたことから、 高槻は英語が進んでいるというキャッチフレーズの下に入学してから、在学中のことを反省して見よう。

 校長先生の教授方法は、主に文法や言語学的な面に重点をおかれていた。 先生の口癖に“BOYは「ボーイ」じゃなくて「ボイ」だよ”というのがあるが、これもその一つだし、 語源やら派生語、反意語などをいちいち教えられたが、それに気づいている人がどれだけあるだろうか。
 文法に関しては、授業内容を充分理解しているならば、かなり力がついているはずであるのに、実際には力のあるものはそういなかった。
 実際週一時間の先生の授業を三年間も聞いていたら、本が一冊できるくらい色々なことを教えられた。 そうでなくても、生徒の方はかなり英語が判っていいはずである。
 ところが不幸なことに、校長先生が好きな人は、余りいなかった。一様にコワイ―キライというのだった。
 授業に関して、私は先生が一度もこわいと思ったことはなかった。ひどく親切な先生だといつも思っていた。 それは先生を“利用”しようと思っていたからであろう。
 教育(education)とは、生徒の持っているものを引き出す(educate)ことだと、あるとき先生は言われたが、 私は先生の持っておられるものを―私にとっては無尽蔵の―引き出して、自分のものにしようと思っていた。だから、毎時間が楽しくもあった。
 校長先生は、利用価値の多い点では唯一だったし、私たちにとっては幸福なことだった。 ところが、生徒の大部分は積極的にそれを利用しようとはしなかった。しかも、そのことに気がつかずに去っていった。
 彼らは時々冗談を言って笑わせる先生が、本来の先生と見誤っていたらしい。 これだけ偉大な先生が、こんな身近にいたのに、それをたゞコワイというだけの観念論者になりすまして卒業していった仲間や諸先輩は、余りにも不幸だといわなければならない。
 それから、後に残された諸君ももはや校長先生の授業は受けられないばかりか、そういう教授法をされる先生は後に続かないのである。  (未完) Oct.2‘61

【後記…その後、「学園新聞に投稿して、校長先生の想い出と、その引退から受ける損失をみんなに知らせたいと思ったが、 現状ではどうもうまく書けないので、あきらめることにした。また後になって、まとめて見ることにする。Oct.5‘61」】

3)「吉川初代校長の訓示の意図」橋本健午 (槻友会報第48号所載2004年3月発行)

 *母校はこの秋、創立70周年を迎える(2010年10月16日)。その記念行事として、さまざまな企画が予定・検討されているようだ。
 一つは『吉川昇日記』の刊行である。日記は長く書き続けられたが、収録されるのは学校創立(1941年)から、日本の敗戦(1945年8月)を挟んでの10年間である。
 私は当初(2009年8月)からこの企画に参画し、参考資料の提供など協力していたが、編集方針や販売の方法など考え方の違いにより、 半年ばかりで離脱せざるを得なかったのは残念であり、また吉川校長に申し訳なく思う次第である。
 もう一つは、戦地に駆り出され亡くなった先生方や、学徒動員で犠牲となった先輩など、 吉川校長はじめこれまでの物故者の追悼を行ってはどうかと提案し、採択されたことである。

2、志乃ぶの女将…「橋本さんは特別の人」

 《早大3年の秋(1964年)ごろから、大学そばだが、文学部からかなり離れた小料理屋「志乃ぶ」に行き出す。 “カカア天下とからっ風”の上州出身とうわさに聞く女丈夫である…》

 *1993年7月20日:「あなたは 学生時代とちっとも変わらない」「娘の成人式の写真に 今でも感謝」

 *1993年10月12日:「(娘家族は)おかげさまで 仲良く暮しています」

 *1998年5月21日:「あれはどうでもいいの、遊びに来て。おネエちゃんはさすが橋本さんらしい、といったと」。…このメモの“意味”不明?!

 *1998年11月9日:「橋本さんは特別の人」の由。Sの女将さん。…その昔、私と付き合っていた娘の成人式の写真を写真館で撮ってもらった。 つまり、忙しい親の代わりをしたことをさすらしい。

 *2001年6月15日:夕方、志のぶへ(「白ブタ君は元気」の由。母娘で噂していたとか…、ケシカラン二人ではある) …勝手に付けられたあだ名だが、1998年2月23日の手帳にすでに記していた!!
 関連して…私は怒りもせず、黙ってニコニコしている、とも評されている?!

 ◎ついでに、
 *ずっと昔、1965年(23歳)ごろ/友人たちと「志乃ぶ」で呑んで、店を出たとき、一人が「(娘は)橋本の彼女だから、手を出すな!」といったのには驚いた。 満更でもなかったが、ガールフレンドの一人であって“彼女”ではなかったからだ。

 *同じく昔、1969年(27歳)ごろ/しばらく付き合っていた5歳下の自称“面食い”の彼女(娘)いわく「あなたと結婚する女性なんて、いないわよ!」

 *その少し前だったか、私が間借りしていた大家さんの家で、元日に新年会があった。 友人数人も加わり、未成年の彼女も大家さんに勧められて、お猪口に少し口をつけた。 …ほてった顔を寒風でさましたが、なかなか元に戻らない。 家まで送っていったところ、出てきた母親(女将)からいきなり、「未成年の生娘をどうしてくれるのよ!」と叱られてしまった。 仕方なく私は「すみません」と、大家さんの代わりに謝ってしまった。

 ◎さらに、関連して、
 *1993年7月31日:「お前は要領がいい。Y子ちゃんを振ったではないか」…ランチョン(神保町)にて 誕生日を迎えたM(この店によく連れだって行った友人)のことば。
 (ちなみに「唯一の"行きつけの店"」

3、わが師 梶山季之

 *1967年夏ごろ:梶山先生一家と伊豆の山荘へ:就学前の娘さんとの会話だったか、それを聞いていた先生から「キミは策士だなあ」といわれる (助手となってまだ1年も経たないころ。“信頼された”のかもしれない)。

 *やはり初期、青山時代。「忙しくて、小説が書けなくて悪いね」とか、「大阪で同人の集まりがあるなら、いつでも行くよ」と気遣ってくれた (残念ながら、私に同人・結社の経験はない)。

 *その後「わが家にいたら、どこでも務まるよ」ともいわれた。たしかにその通りになった。

 ◎詳細は、拙著『梶山季之』(日本経済評論社1997・07)ほか、多くのレポートを書いている。 なお、1975年5月、香港で客死した直後に出された「別冊新評 梶山季之の世界 追悼特集号」に拙稿「ドキュメント 梶山季之の死」もある。

4、長谷川 古先生…

 《私が日本雑誌協会(事務局)に勤めたのは、1982年10月1日から(40歳)、1995年12月末まで(53歳)》

 *1982年10月19日(火)…
 日記に「2時〜景表法責任者会議(40社ほど出席)に出る。そのあと、3時〜同小委があったが、事前に何の説明もない。 小委の席上で、H顧問より、公正取引協議会(新設するもの)の事ム局長に橋本さんがなってもよい……などと発言あり。一同シーンとしていたが。」と記す。 私の上司はすでに20年近く勤めているT事務局長だけ(当時53歳)。H顧問はこの年5月ごろから非常勤。

 *1982年10月26日(火)…
 日記に「もう腹を立てないことにした。若い人たちと話したが、言っても始まらない由。 昼は会議で、   外へ行く。夜、歓迎会{大文字茶屋}でH先生と一緒に事ム局員と。まあまあの会で、気分は悪くなかった。 後でH先生の言に期待できるものあり、O社長と同期生とか。半年ぐらい何もしない方がよいとのこと。気永に行こうと思う……。深夜帰宅」

 ○1985/2・22《久》H先生と飲む:「事務局の改革をと…」(げんない5,690円)

 *1993年7月15日:「勤めは 身過ぎ世過ぎのため。 本を書いてくれ」…顧問H先生の言葉

 *1994年8月10日:「ちゃんと 他人(ひと)は観ている」/「調べて書くものに期待する」/「彼はキミと比べられるのが恐いのだ」…以上、H先生のことば

 *1995年7月7日:「一人を除いて全くアテにならない(人格、仕事上で) こんな部下ばかりでは責任者にはなりたくない」 …銀座アスターで(事務局納涼会、H先生に)

 *95年10月25日…(H先生より)
 拝復 お手紙いただきましたが、年末でおやめになるとは誠に残念です。それでは、彼の「思うツボ」で、これまでの苦労が無になります。 小生としては、絶対にアツカマしく、がんばることを祈ります。/小生、今年で七十才の定年で、週三回の栃木県通勤がせい一ぱいで、他の事情もあり、 とても夜東京に出かけられませんが、よかったら土・日でもいらっしゃいませんか。十一月五日、六日以外は在宅の予定です。 /小生も当時の委員長のHさんとのけんかやその他大分苦労してきました。ぜひ一度おいでください。電話くだされば、道順くわしくお知らせします。 /とり急ぎ用件のみにて失礼します。

 *1995年10月28日: H先生に報告(有能なスタッフがいない・・・)「さあ、これからはお祝いの会だ」…松戸にて

 *1995年11月10日:長谷川先生に祝電を打つ(勲三等瑞宝章)

 *2006年1月11日: H先生より葉書をいただく。 「拝復 喪中ながら、よき新春を迎えられたことと思います。お手紙により、貴兄のこの十年の『お仕事』を詳しく知ることができ、 一安心すると同時に、遠くから応援の拍手をお送りします。小生も一昨年三回も入退院をくり返し、医者のすゝめで、 息子のところでお世話になっていますが、足腰は大幅に衰えましたが、内臓の方はまあまあの状態です。 幸い、長年考えていた本『日本の独占禁止政策』を五年前に出し、一定の評価を得ました(残念ながら、残部全くありません)ので、 心安らかに日々をすごしております。今年の寒さは格別のようです。ご自愛の程祈ります。敬具」

 ●2009年8月:お亡くなりになった由。《インターネットで知る 2010・05・10》

5、布川 角左衛門先生…

 《新潟県出身1901−1996:岩波書店・編集部長、出版倫理協議会初代議長・日本出版学会初代会長など出版界の重鎮》
 20冊ほどある拙著のなかで、献辞を記したのは『有害図書と青少年問題−大人のオモチャだった“青少年”−』(明石書店2002・11)の「故 布川角左衛門先生に捧ぐ」だけである。

 (1)91・03・25…布川先生から、昨夜、フロに入っている時にTelあった由。道新のコラムについての感想で、 大変勉強していると過分なおホメの言葉をいただいた。
「北海道新聞日曜版書評欄コラム(本・出版関係)」(1990・12・09〜1991・03・10)…発行日・締め切り日 /「編プロ」の役割/ペンネーム/差別意識/弁護士一家ら致事件/42万点/なぜ同じ発売日?/北方領土問題/歴史の“真実”/板門店の壁/復刻版ブーム/自分の図書館/老人ホーム事情

 (2)92・01・24…枚方講演記録について「よく事情に通じている」(1991・11・30枚方市立図書館)
1. はじめに―昭和33年3月31日―/2.“悪書追放運動”について―出版、映画、テレビ…魔女狩りは続く― /3. 少女誌問題(昭和59年)について―中央立法化の検討― /4. コミック本問題の現況/(1)存在しない“少年少女向け”―“宮崎勤”的ロリコン現象―/(2)条例強化の動き―住民運動は主体的か― /(3)取り締まり側の論理―非行との因果関係―/(4)出版倫理協議会の活動―出版業界の対応― /5. 本当に青少年に“有害”か―いつも当事者不在の論議―/6. 知る権利、見たくない自由―「子どもの権利条約」― /7. おわりに―親として、社会人として―/* 質問に答えて

 (3)1995年10月3日:「会報いつもありがとう。布川文庫に保存する。書協のとは全然ちがう」…布川先生より電話をいただく。 九十四歳。これが最後となった。布川文庫…収納2万点の由

 〔参考〕なお、布川先生に関しては、次のような文章を書いている。
 布川角左衛門先生と出版倫理活動

 《青少年育成国民会議》

 《東京都青少年健全育成審議会》

 「布川先生と出版倫理活動」について

 *まったくの余談…上記2つの文(「東京都青少年健全育成審議会」「『布川先生と出版倫理活動』について」)中にある「母の会」に関連して ――私は大学3年のとき、ある母の会の会長と知り合った。
 そのいきさつは思い出せないが、ある大手出版社の試験を受けるべく、推薦(口利き)をしてもらったような気がする。 さらに、もう一人別の方から同社への口利きの話もあって、世間知らずの私は、これは不味いのではないか、と悩んだものだった。 幸い?なことに、私は1次試験で落っこちたが……。
 もっとも、その会社に入って(サラリーマンになって)おれば、そこそこの実績を上げたかもしれないが、 “組織”になじまない私は長続きしなかっただろうと、今にして思うのである。


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