「ミニ自分史」TOPへ。

「ミニ自分史」(69)「長兄のことなど」

「ミニ自分史」(68)       「ミニ自分史」(70)


 父は再婚で、私には実兄一人とその上に異母兄弟が四人いた。といっても次兄(海軍兵学校出身)は私の生まれた二年後に戦死しており、まったく覚えがない。
 私の中学からの育ての親ともいうべき長兄は、恬淡とした人で、亡くなる直前の病気や手術についても、普段と変わらない表情を保っていた。
 大正8(1919)年、大連で生まれた兄は千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部。今でも国立大学では唯一の学部)を卒業後、 大連にもどって満州国関係の組織に勤めていたが、第二次大戦では捕虜となり、シベリアに抑留されたのち、 昭和22(1947)年8月に帰国(福井県)している。

 そして、地元の若狭高校の教師をしたのち、大阪府庁に入り庭園関係を担当する。その兄に中学生のときに連れて行ってもらい、 いまでも覚えている服部緑地(豊中市)は「日本の都市公園100選」に選ばれているという。
 兄は1970年の大阪万博では日本庭園の責任者を務めていた。東京で大学生となった私が帰省したとき、 父は「(庭園に予算20億円が投じられると聞き、兄が)贈収賄などに巻き込まれなければいいが」と呟いていた。 いくつになっても、親は子供のことが心配になるんだなあ、と思ったことである。今では、100億円以上か。

 ついで73年に府庁を退職後、沖縄海洋博覧会協会に転じ、海洋博(1975−76)でも日本庭園を担当したほか、 その間74年には琉球大学で"庭園"についての講義もしていた。
 やがて、長く単身赴任だった長兄は、暑さと泡盛のせいだったかどうか、その後、次のような事態を招いてしまった。 以下、当時の私のメモの一部である。

 S54(1979)年 6・21(木)/AM7・40ごろ、大阪兄よりTELあり、『マルコ・ポーロの冒険』昨日着いたとのこと。 /本日、胃カメラの検査結果出る由。一か月前より胃の調子悪し……//夜10時過ぎ帰宅、千葉兄・名古屋兄よりTELあった由。 いずれもTELする。/大阪兄入院とのこと(ガンなり)。(I市内、S病院、市会議員の紹介)/初期ならば、大したことなし、と話す。
 6・24(日)(京都・S 見舞いある由)
 6・25(月)/夜8時すぎ、名古屋兄よりTELあり、/大阪嫂へTELす、相当悪い由、対策を講ずるも難しとのこと。 /千葉兄へTEL。明日、大阪行を告げる。/千葉兄、大阪へTEL。//K氏(D工業)より、阪大系の成人病センターへの紹介の話出るも、 迷っているとのこと。/千葉兄に、大阪兄を説得してくれないかとの話。/健午、訪阪を告げ、バトンタッチの由。
 6・26(火)/午後3時ごろ、I着、タクシーでS病院へ。3Fの8人部屋、窓際に、嫂、R子氏、すでに来訪あり。 /一見して元気。冗談も普通。/6時半ごろまで、約3時間、いろんな話をする。
 6・27(水)/夜明け前より大雨、十日ぶりとか。/3時すぎ病院へ。明後日手術とのこと。下痢気味。食欲余りなし。 //6時ごろ嫂と、担当医Tのもとへ。/臨床結果は99・9%の確率でガンとのこと。それも手遅れだというが、 残る0・1%は、がん細胞が検出されなかったことによるらしい。 /◎N先生(部長? 今回の執刀医)の"十中八九ダメ"という先の見解(6/21ごろ)と、ニュアンスがちがう由(嫂の話)。
 6・27(水)つづき/手術は午後1時より、兄誓約書に署名捺印する。/帰途、I家へ寄り、寸志の相談。 道々、阪大へ移さなかったのは、本人が希望しなかったため、とのこと。//9時ごろ、千葉・名古屋へTEL。 千葉兄へ、阪大へ行かなかったことを話す。兄曰く「強制するわけには行かないからな」との返事……。 /(欄外に)寝巻、腹帯、丁字帯、バスタオル、タオル、チリガミ、水呑 とある。

 私は嫂に付き添う立場で、手術室前の廊下の長いすに座っていた。医師曰く、手術が早く終るようであれば見込みはないが、 もし長引けば望みがある、ようなことを言った。その言葉にすがりたい気持ちでいると、しばらくして若い医師が出てきた。 やっぱり駄目かと思っていると、彼は「摘出した臓器を学会で発表してもよいか」というようなことを嫂に聞く。 ほとんど考える余裕もなく、同意していた。
 それから時間はどれぐらい経っただろうか。麻酔をかけられた兄は、看護婦詰所の隣にあるガラス越しの小部屋に移された。 嫂とともに、私も付き添うが、眠ったままの兄を前に、交わす言葉もない。回りもだんだん暗くなる。 ときどき兄は目を覚まし、いま何時かと聞く。私はとっさに数時間のサバを読んで、うその時刻を告げた。 「手術が長引いた、たいしたことはなかった」ということを言いたかったからだ。うなずいた兄は、また眼をつぶるが、 しばらくすると目を覚まし、前と同じように何時かと聞く。3回目あたりから、私は逆に現実にちかい時間を告げた。 冷や汗ものだった。兄は気づいていたかどうかは分らない……。何の力にもなれなかったが、私は二日ばかり、 そばにいて東京に戻った。

 大阪兄とは、長兄公一のことで、嫂とともに私の"育ての親"であった。静岡県と愛知県の県境付近に住んでいた小学4年生のときだったか、 二つ上の兄("名古屋")とともに、大阪見物をさせてもらった。プロ野球のナイター見物など、ものめずらしく、 大阪は"大都会"であったことを覚えている。
 そして、小学校卒業間際の3月はじめ、長兄夫婦らのいるI市に移り住み、近くの私立学校(中高一貫校)の試験を受けて以来、 六年間、電車通学をすることになった。
 なぜそうなったのか、しばらくは分からなかったが、長兄夫婦に子どもがいないこと、家が貧しかったことなどに因るのであろう。
 最初の運動会の日、校門近く受付にいると、同級生の一人が「おい、橋本ッ。お父さんが来たぞ!」と叫んだ。 「おかしいな、父は来るはずはないのだが」と思って、見ると、そこにいたのは長兄である。 腹違いの兄と私は23も歳が違っていたから、学友が父親と間違えるのも無理はなかった。

 ところで、メモの冒頭にある『マルコ・ポーロの冒険 上巻』(勁文社、少年向け・文庫版)は、前日に37歳の誕生日を迎えたばかり、 フリーの私にとって、初めての出版物となった(関連してHP…レポート「『東方見聞録』のマルコ・ポーロが遭難した・・・」(1980・05"本橋 游")。
 その前、75年5月梶山季之の死後、勧められて創業まぢかの日刊現代(築地)に勤めたが、はかばかしくなくて一年半ばかりで辞めている。 やがて編集プロダクションを作る話もあったが、業界の年配者たちのつばぜり合いで一頓挫していた。 そして、定職もないまま、一種"身許引受人"を買って出た人の事務所(四谷)で、なにやら幻の"出版"の企画を練るなど、 まったく先行き不透明な時期であった。
 もっとも、学生時代の友人や知人の助けもあり、校正や取材の仕事を散発的にこなし、やがて旧知の方から声がかかり月刊「現代」(講談社)編集部で、 「随想」や「囲碁・将棋」などのコラム欄を担当するなどしていた。
 前後して、最初のノンフィクションものである『熱球のポジション 日米大学野球の青春譜』(共著、情報センター出版局80・12)を手がけ、 次いで、『父は祖国を売ったか―もう一つの日韓関係―』(日本経済評論社82・07)も上梓した。
 『父は・・・』執筆のいきさつを言えば、四谷の事務所で"主人公"に出会い、吉祥寺のご自宅に何度も通い、取材を重ねた末、 4年がかりで書き上げてはいたが、ほとんど棚上げ状態だったものが、ひょんなことから陽の目を見たのだった(HP…論文「"史実"と"真実"・・・」(2000・07)に詳述>。
 いまにして思うに、『マルコ・ポーロの冒険 上巻』を送ったとき、物書きであった父の後を、辛うじて末弟の私が"継ぐ"かもしれないと、 兄の頭をよぎったかどうか心もとないが……。


ご意見、ご感想は・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp