プロフィール
橋本 健午(はしもと けんご) ペンネーム 本橋 游(もとはし ゆう)

1942(昭和17)年 中国・大連生まれ(→ 1991年10月、大連・上海に遊ぶ)。 福井県に引揚げ、小学校入学→静岡県に移住、*遠敷小から岡崎小へ(一部)6年の3学期末、卒業式に出ず大阪府へ  ※「岡崎小時代」(一部)
1958(昭和33)年3月 大阪・高槻中学校卒業 [テニス部] [新聞部]…※校内マラソンで優勝(3年)「マラソン」、 ※書く書く詩か字か−青春編−※「人間のあやまちについてのおじさんへの返事」「わが高槻との縁 ―中学時代―」
1961(昭和36)年3月 高槻高等学校卒業〔槻友会13期〕  「吉川初代校長の訓示の意図」(槻友会報No.48…2004・03所収) 「わが高槻との縁 ―高校時代―」
在学中、学園新聞に"論説"2本執筆。 〈当時のペンネーム:都真美あるいは都 美(マ抜けのツマミ)、そして足良 哲
予備校にも行かず、浪人中の8月、創作「生きるべく道へ」(のち、第2章を加え「少年だったころ…」と改題)を執筆、 ※浪人生活1年間に読んだ本など(1961・4〜1962・2)、※「わがヰタ・セクスアリス」
1966(昭和41)年3月 早稲田大学第一文学部文学科露文学専修卒業 角帽をかぶった写真“卒業記念”
「東北 一周旅行」(Aug.1〜Aug.11 1962) アルバムより、 ※大学時代+αの映画・音楽・美術鑑賞、散策など、※H.Y君を偲ぶ、 ※”結婚”について、※ドストエフスキー&トルストイ、 ※個人的な北海道文化論−道南地方旅行記−、 ※『晶子曼陀羅』いろいろ、※ある風景「女からの電話」、 ※「新 詩のようなもの」、※「習作『虚構としての時代』」
同年4月 (株)集英社出版部に勤務(アルバイト、〜同年9月)
同年11月 作家・梶山季之の助手となる(75年5月同氏死去、同年9月退職)
この間、67年1月〜大宅壮一東京マスコミ塾(第一期生)、※「トップレス・ゴーゴー」、 ※「宿題が すんだら…」、※「多磨霊園(73.5.13)」、 ※「講師をやっつけよう」、※「乗せられた話」
71年7月〜梶山季之創刊の月刊『噂』の編集等に参加(〜74年2月、32号で休刊)
1967(昭和42)年1月以降 「すきま風」new!!
1975(昭和50)年9月 (株)日刊現代に入社〔編集・総務・経理〕(〜77年7月)
76年10月総務部時代、社内全体の配置換え作業で「社長賞」を受ける
1979(昭和54)年7月 (株)講談社「月刊現代」の記者となる(〜82年9月)
1982(昭和57)年10月 (社)日本雑誌協会に勤務(〜95年12月退職)〔編集委・倫理委・著作権委・広告委等を担当、
併設の出版倫理協議会・雑誌公正取引協議会・共通雑誌コード管理センター各事務局も担当〕
1983(昭和58)年10月 初めての講演を行う。題して「日常文章の作り方」。 余談として、ペンネーム"本橋 游"の由来や二年ほど前に罹った"痛風"に触れる…
1990年10月 早稲田大学第25回ホームカミングデーに参加。同時に、学園紛争で中止された私たちの卒業式も25年ぶりに行われる(21日)
1995年10月 キャリアスクール・ファーレ{渋谷}で「雑誌編集科」(〜96年4月)と「マスコミ科」(96年5月〜97年3月)の専任講師を務める
1996年1月 (財)流通システム開発センターより共通雑誌コード普及に関し ”流通システム化”貢献者表彰を受ける
同年1月 出版午合会 入会
1997年7月 拙著『梶山季之』初めて書評される(評者:高橋呉郎《元・月刊『噂』編集長》)
1998年4月 出版学校日本エディタースクール講師(〜2008年3月)
同年9月 日本出版学会 入会(学会賞審査委員 2001、2002年の2期)…2009年5月退会
2000年4月 『雑誌出版ガイドブック』を上梓。 これは1995年4月からキャリアスクール・ファーレ{渋谷}で「雑誌編集科」「マスコミ科」の講師時代に用いた自作の“教材”と、 1998年4月から日本エディタースクールでの“教材”を元にしたもの。
2000年10月 早稲田大学第35回ホームカミングデーに参加(22日)
2001年12月 この「心―こころ―橋本健午のページ」を設ける
2002年4月 東急セミナーBE渋谷「ノンフィクションを書こう」講師(〜2003年3月)、2003年4月〜「文章教室」講師(〜2006年9月) ⇒受講生による自主講座(渋谷区民館)2006年11月〜2008年3月
同年8月 調布稲門会 入会(〜05・04)
2003年2月 雑学倶楽部 入会(〜05・06)
同年3月 都立神代高校PTA副会長(〜04・01)
同年4月 昭和史を語り継ぐ会 入会(…自然退会)
2007年12月 日外アソシエーツ「Keireki Who」欄に"経歴情報"が掲載される
2009年1月 高槻高等学校で「母校沿革史」関係の資料作成・報告を行なう
同年9月 同上「”高槻学園新聞”の歴史と役割について」資料作成ならびに報告
2010年10月 神代高校創立70周年記念式典に出席(調布グリーンホール)
早稲田大学第45回ホームカミングデーに参加(17日)
2011年6月 講演3時“演題自由”大宮稲門会見沼区
2011年7月 「シンポジウム(東京都青少年条例)」出版労連
2011年10月 「高槻高等学校卒業50周年と古希を祝う会」に参加(有馬温泉:13期)
2011年12月 “大正時代の雑誌出版” (約5100字。事前に面談した高橋雅夫ビューティサイエンス(BS)学会理事長より依頼、ただし掲載など事後処理は不明?!)
2012年3月 「田無寮OB会」について(「早稲田学報」No.1192)
2012年4月 「“戦前”で終わっていた父橋本八五郎の人生」 (「戦前期『外地』で活動した図書館員に関する総合的研究」所載)
2012年11月 第一回「高槻高等学校ホームカミングデー」に参加(3日)
2013年2月 初めての書評をする(『週刊読書人』)… 岡村敬二著『満洲出版史』(吉川弘文館)
2013年8月 NHK広島「我が愛する被爆都市〜新資料が語る作家・梶山季之の世界〜」に出演(撮影6月調布・たづくり/DVD)
2013年8月 調布稲門会 再入会
2014年1月 調布稲門会に再び退会届を出す(案内状の文面が余りにも杜撰なため愛想を尽かす…)


ささやかなエピソード(2001年12月)

唯一のミーハー的行動
 大学1年のとき、デビュー間もない"世界のオザワ"小澤征爾よりサインをもらったこと。
 1962年11月10日、早稲田大学の創立80周年を記念して、上野の東京文化会館で行われた大学の交響楽団により「第九 合唱」が演奏された。
 それを指揮した彼が演奏を終わって舞台の袖に現れたとき、私は思わずいちばんに飛び出して、大きな入場券を差し出した。 あとに続く人も多く、私の万年筆は返ってこなかった。
 そのサイン入り入場券は、99年9月、同文化会館内にある東京都交響楽団に"永久寄託"した。 知人が副理事長に就任したためである。

唯一の"行きつけの店"
 西早稲田にある「志のぶ」。少し前、田中真紀子外相が出入りしているなどと話題になった、名物女将がやっている居酒屋。 白鶴のたる酒など日本酒がうまく、学生時代から出入りしているが、行きつけといっても最近は月に一度ぐらいという体たらく。
 若いころは居酒屋、すし屋、水道橋にあるトンカツ屋、歌舞伎町のスナック(当時はコンパといっていた)などいくつかあった。
 ここ十年ぐらいは家庭料理の店、築地のすし屋、ワイン専門店などいろいろ覗くが、クラブは誘われてもカラオケは歌うのも聞くのも嫌いであり、 なにより女性に気をつかうのが面倒である。

唯一、ヤクザさんに絡まれたこと
 はたちのとき、東京発23時43分の大垣行最終普通列車(現在は快速座席指定)で、豊橋までガールフレンドに会いに行った。 貧乏学生は早朝からの日帰りデートを目論んだのである。
 始発から座る席がなかった。 通路に立ったままだと、ガタンガタンと揺られ、だんだん疲れてもくる。 通路に新聞を敷いて寝ている人もいるが、各駅停車で乗り降りは絶えずあった。
 静岡から乗ってきたその男は通路の客をむりやり起こしながら、私の前で止り、足元の新聞紙を私のほうへ押しやった。 車内の灯はかなり暗い。疲れていた私も同じように押し返すと、男はぐっと睨みつけ、「俺はフーテンだ」といった。
 文学部の学生として、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』の"フーテン"を思い出したが、どうも違うようだ…("風転"?)。 しかたなく、腕組みをしたまま、斜めに相手を見ていた。 しばらくすると、男は口を開いた。 「いい度胸じゃないか」と。私は「疲れていたものですから、つい…」と答える。
 男はいつの間にか、どこかで降りていったものの、あとでまた絡まれるのではないかと、 落ち着かなかったものである。
 この経験で、私は"生き方"のあるヒントを得た。 その後、個人的にも梶山季之の助手時代も、チンピラ、ヤクザ、右翼、そして元殺人犯などという人たちと対面した時に、 そのヒントは役に立つのだった。

唯一の"失敗"がないこと
 つまり、失敗や反省ばかりの人生であること。
 長ずると、エピソードもなく、「人生は すべからく 盗作の連続だ」となり、あとはコトバばかり、「人生は 一日の集大成である」。 かくして「けん語録 書く書く詩か字か」となるのでした。


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