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梶山季之 没後30年 II.その後の30年(1)1975〜1984《前》
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梶山季之 没後30年 II.その後の30年(2)1985〜1994
梶山季之 没後30年 II.その後の30年(3)1995〜2004
さらにその後 IV. 2005(平成17)年〜

梶山季之 没後30年1930〜1975…2004

          I. 梶山季之の"死"…(新聞・雑誌の追悼記事など)
                    《参考》梶山季之と"ライフ・ワーク"
          II.その後の30年(1)1975(昭和50)年−1984(昭和59)年
                     (2)1985(昭和60)年−1994(平成06)年
                     (3)1995(平成07)年−2004(平成16)年

 「虎は死して皮を留め…」といわれるが、この5月11日、没後30年を迎えた梶山季之(1930−1975)の場合は、どうであったか。
 30年といえば、梶山の生前の作家活動にほぼ倍する期間である。もうそんなに経ちましたかと感慨にふける方もおられれば、 昔こんな作家がいたのかという若い方の驚きの声も聞く……。
 また、今年は"戦後"60年の節目の年でもある。長年にわたり多くの資料を収集し、"朝鮮""移民""原爆"という三つのテーマに心砕いた梶山は、 存命であれば未だ75歳、どのような感慨を抱いたであろうか。
 そこで、この30年間を"生きた"梶山の足跡をたどってみたのがこのリスト、いわば「梶山季之資料館」の"別館"である。 上記のように、4回に分けて掲出の予定である。
 〔なお、僭越ながら、時に《   》で囲んで、私(橋本健午)の"コメント"や"補足"を付記しております。 主として、拙著『梶山季之』(日本経済評論社1997・07)でふれたことなどです〕

1、梶山季之の"死"…(新聞・週刊誌の追悼記事など)

                《参考》梶山季之と"ライフ・ワーク"

*新聞(昭和50年5月12日(月)付朝刊、当時1行=15字)
〔順に、発行年月日 新聞名…「見出し:特集のタイトルなど」"//"は、内容の要約・抜粋、時に説明など〕

◎ 50・5・12朝日新聞…「梶山季之氏急死/取材旅行で香港滞在中」(顔写真+40行〈うち、香港=共同31行〉、関係者の談話なし)

◎ 50・5・12毎日新聞…「"猛烈作家"梶山季之氏 急死/取材中の香港で倒れる」(顔写真+63行) //リードに「『トップ屋』『社会派推理作家』『ポルノ作家』……多くの顔を持った"梶サン"梶山季之氏が香港で急死した。 酒を飲み続け、ライフワークの取材旅行中に倒れた"モーレツ売れっこ作家"の死。まだ45歳の働き盛りだった」。 ついで本文、「…容体悪化を聞いて9日駆けつけた美那江夫人の話では、梶山氏は現在、日本、韓国、香港、米国を舞台にしたライフワークとも言うべき長編小説を執筆中。 美那江夫人は『これでは死んでも死に切れないでしょう』と沈みきった表情だった〈以上、香港特派員発〉」。 他に、尾崎秀樹氏(文芸評論家)の話「4日に会ったのが最後だ。市民大学講座』で大衆文芸について柴田錬三郎、 永井路子さんと一緒によく話してくれた。元気に、しゃべっているから、放送(12日午後8時、NHK教育テレビ)を見てやってくださいよ。(以下略)」

◎ 50・5・12読売新聞…「梶山季之さん香港で急死」(顔写真+45行〈うち、現地特派員25行〉) //作家・三浦朱門氏「彼らしい死かも…」の話「あまりにも唐突な死だった。一友人としては、もっと長生きして、 もっといい仕事をしてほしかったが、突然の死はある意味ではいかにも彼らしい感じもする。 文学青年時代からの古いつきあいだが、彼には常に何というか"はずれ者の意識"があった。彼の書いた企業小説でも、 主人公は常に経済界の一匹オオカミであり、好色的な文学にしても、性の常識の外側にいる人間を題材にしてきた。 権威とか巨大な組織に違和感を持つ反面、心の奥底では非常なさびしがり屋でもあった。 そのさびしさが他人に対する途方もないやさしさとなって現れたようだ。彼なりに一貫した仕事をして、 終局的には政治的なものに目をむける、そういう時期に倒れたといえるだろう。人間的にも大きな魅力のある友人だったのに……」

◎ 50・5・12日本経済新聞…「梶山氏、取材先の香港で客死」(顔写真+39行香港=共同) //草柳大蔵氏「根はジャーナリスト」の話「梶山さんは事実を彼一流のきゅう覚で集め、新しい語り口で書いていくという読み物のタイプを開拓したストーリーテーラーで、 作家ではあったが、根はジャーナリストだった。この5、6年、出生地の韓国を舞台にして、国家や民族問題などを盛り込んだ大作と取組んでいたが、 それが負担になっていたのではないか。ある意味では、マスコミ状況の中の悲劇だ。これからの人なのに惜しい」

◎ 50・5・12東京新聞…「梶山季之さん香港で急死/ライフワークの取材旅行中」(顔写真+61行〈うち、現地特派員27行〉) //文芸評論家・尾崎秀樹氏「転換、飛躍の時に…」。そして、作家・佐野洋氏「有能な人亡くし残念」の話「梶山君とは同世代の推理作家でつくっている『他殺クラブ』で一緒だったが、 彼の取材力には敬服していた。ポン友でもあり、飲み仲間でもあった。お人よしで、イヤといえない性質からジャーナリズムの要求に応じ、次々と執筆した。 それでも最近は執筆量を減らし、酒量を抑え、伊豆の別荘で農作業をするなど健康に気をつかっていた。 やり残したことがいっぱいあると思う。有能な作家を亡くして残念だ」

◎ 50・5・12中国新聞…「梶山季之氏 香港で急死」(顔写真+55行) //他に、同人誌時代からの友人・小久保均氏「ライフワークを実現させたかった」の談話⇒資料不明、調査中

◎ 50・5・12サンケイスポーツ…「香港でライフワークの取材中/梶山季之さん客死」(顔写真+41行〈うち、香港=時事20行〉) //作家・結城昌治氏の話「彼は世間に誤解されている面が多く、また誤解されるような小説も書いていたが、 本当はたいへん義理堅くやさしい男だった。マスコミに追い回される仕事とは手を切って『ライフワークを書く』といってがんばっていた。 /韓国―広島―ハワイを結んだスケールの大きい自伝的大河小説で、すでに千枚近く書き進んでいたはずだ。 これからいい仕事をやろうとしていた矢先だけに非常に残念だ」

◎ 50・5・12スポーツニッポン…「梶山季之氏香港で急死/胃かいよう ライフワークの取材旅行中/スポニチ連載『赤いダイヤ』で脚光」(顔写真+64行) //リードに「人気作家の梶山季之氏が、11日午前5時半、取材旅行先の香港クイーンズ・メアリ病院で胃カイヨウのため死去した。 氏はライフワークとして取組んでいた日韓、日米関係と米国の日系二世、三世を扱ったテーマの小説の取材で5日、香港を訪れ、 7日過ぎ、宿泊先のホテルで吐血、治療を受けていたもの。46歳。遺体は12日の検死の結果を待って13日夜か14日、日本へ帰る」。 また、小林秀美氏(画家)「彼の律儀さが命とりに……」の話「彼が死んだなんて、まだ信じられないというのが正直な気持です。 2週間ほど前、銀座で会ったのが最後になってしまったけど、その時はあまり酒は飲まなかった。疲れているという感じは受けたけど、 そんなに具合が悪かったとは……。/『赤いダイヤ』以来15年にもなるつき合いだったけど、とにかく律儀な人だった。 原稿は遅れたけれど、それは自分でも無理だと分かっていても、頼まれると断れなかったからなんです。 友達や周囲の人の面倒をよく見る人で、そういう彼の律儀さが命を縮めてしまったんですね。それにしても、酒にはきたえられていたはずで、 胃カイヨウで亡くなったなんて、本当に信じられません」《死因は、食道静脈瘤破裂と肝硬変。また年齢は、正しくは昭和5年生れの45歳》

◎ 50・5・12報知新聞…「梶山季之氏取材中の香港で死去(顔写真+27行) //俳優・田宮次郎さん「さわやかな正義感」の話「とにかく一番大事な友だちでした。いまは悲しくさびしい気持ちでいっぱいです。 昔よりお酒がすごく弱くなったので疲れているんだなあ、と思っていました。いろいろな小説を描いていましたが、 中身は全然毒されていない。正義感だし、口ではエゲツないことをいっても、どこかさめている。さわやかな人でしたね。 ぼくが五社協定にひっかかって、仕事が全くなかったとき『小説五社協定』を書いて応援してくれたり、 しばしば電話をかけて励ましてもくれました。/ふつうは作品が売れ、名前が出るとおたかくなるもんです。 と同時に筆もにぶってくる。でも、梶山さんだけは違っていました。昨日(10日)も女房(藤由紀子)とうわさをしていたばかりです。 本当に悲しいですね」。ついで作家・戸川昌子さん「本当に惜しい人」の話「突然のショックで、まだ実感がわいてきません。 梶山さんとはチョイチョイ飲んだり、一緒に講演に行った仲ですが、適当に不良で適当に筋が通っていて、面白いお付き合いをさせてもらいました。 これからは仕事を減らして、ライフワークとしての歴史ものを書こうなんておっしゃっていました。 さんざんシャカリキになって仕事をして、ようやく落ち着いて自分の仕事をやろうとしていたときなのに。 本当に惜しい人をなくしました」

◎ 50・5・13夕刊フジ(5・12日午後発行)第1面に「書いて飲んで病んで…/梶山季之さん 45歳・香港での死/ライフワーク『積乱雲』取材なかばに」、 さらに小見出し「生まれた韓国、育った広島を題材に/本紙連載で自らの通夜情景を描く/今夜、文学講座で最後の声(NHK教育8時)」 //第2面に「これから真価発揮というときに…/梶山君、働きすぎたよなァ 山口瞳(談)」

《その他、中部読売・大阪・デイリースポーツ・日刊スポーツ・新大阪など、多くの新聞で報じられた。 ちなみに、同月10日にフランス文学者の渡辺一夫さん(73歳)が亡くなっており、12日付の新聞には二人の訃報が写真つきで左右あるいは上下に並んで掲載されているのがいくつもあった》

◎ 50・5・13東京新聞「こちら特報部」(見開き2ページ)「人ごとじゃない 梶山さんの急死/人気作家の多忙度と健康度は…」 //リードに「人気作家・梶山季之さんが旅行先の香港で急死した。肝硬変が原因だったという。昭和4年生れの46歳、 サラリーマンでも働きざかりの年代である。かつて胸を患ったとはいえ、超人的な執筆量と、豪快な酒で知られた"梶さん"の死は、 同世代の作家たちに大きな衝撃を与えているようだ。『創作活動に不規則な生活は付きもの』という話は、今も昔も変わりないのか。 人気作家の多忙度と健康度を診断――」。//コメント・登場は順に、山口瞳(48)、黒岩重吾(51)、佐野洋(47)、川上宗薫(51)、 北杜夫(48)、野坂昭如(44)、神吉拓郎(47)、遠藤周作(52)、田辺聖子(47、名前のみ)、佐藤愛子(52)、五木寛之(42、名前のみ)の各氏。 なかでも、医師でもある北さんは"作家の多忙さと健康"について語り、ついで「北さんは、マスコミが人気作家に過度の負担をかけている――という。 それは、作家と編集者の間柄が、義理人情で結びついているからで、無理な注文でもつい引き受けざるをえなくなる」と記者は書く。 ふたたび北さん「ですから、作家を育てようと思うなら、外国のエージェント(作品を出版する代理業者)のように、 あまり作家を働かせないようにしてもらいたいですね」という。一方「やや"悪者扱い"気味の編集者を代表して、 大村彦次郎さん(前「小説現代」編集長、現「群像」編集長=いずれも当時)は『梶山さんは、最近かなり仕事をセーブして、 ご自身の健康やライフワークの作品を考え、かなり計画的な生活をしておられました。ある時期は、はたで見ていても"大変だなあ"という仕事ぶりでしたが、 最近はそうじゃなかった。(中略)ただ、人気作家の条件として、ある程度多作できることが必要なのは事実ですが――』(以下略)」

◎ 50・5・13サンケイ「サンケイ抄」⇒資料不明、調査中

◎ 50・5・16朝日新聞「天声人語」 //「旅先の香港で、胃から血を吐いて死んだ作家梶山季之さんは、46歳だった。心やさしく、気前がよく、才能ある人だった。 後半はポルノ作家になってしまったが、本当のオレは違うんだという悲願は持っていた。いよいよ『本当のオレ』が書くつもりで香港に出かけて、 死んだ▼周囲の人は『あれでは長生きできないんじゃないか』といっていた。週刊誌5本、月刊誌3本の仕事を抱え、 月産千枚以上のスピードで原稿を吐き出す。毎日欠かさず、4百字詰めの原稿用紙3,40枚に字を埋めなければならない。 どんな有能な人でも、これは長続きする仕事ではない(以下略)」。この後、"1昨年蒸発した"ことのある井上ひさし氏と2年半の休筆宣言をした五木寛之氏にふれている

◎ 50・5・18東京タイムズ…「梶山氏の『葬儀』でない葬儀」 //「…冒頭のあいさつで進行役の藤本義一氏は『ただいまから、梶山季之氏の告別式を行います。普通ならば、 ここで告別式といわず、葬儀というべきところなのですが、あえて告別の式と申しあげます。実は、このことは故人の遺志に従ったことなのです。(略)』。 一切の虚飾を嫌い、権威主義を嫌った梶山氏にふさわしい『告別』の行事は、こうしてはじまった。(以下略)」 《葬儀告別式は5月17日(土)午後1時、東京・芝・増上寺会館で行なわれた》

◎ 50・5・18毎日新聞…「『さらば梶山さん』遺言で"通夜延長"」 //「…遺書には、『葬式も墓も必要ない。通夜だけ盛大にやって編集者や世話になった人々に礼をつくしてくれ。 オレは一市井人だから……』と記してあった。/告別式は梶山さんの遺志通り"通夜の延長"として行われた。(以下略)」

◎ 50・5・18読売新聞…「故梶山氏の葬儀にファン千人」 //「…祭壇の笑顔の写真は、雑誌『オール読物』の48年新春号の巻頭グラビアに掲載されたもので、 妻美那江さんのお気に入りの一枚という。戒名は、今(東光)さんから『文麗院梶葉浄心大居士』(ぶんれいいんびようじょうしんだいこじ)とおくられた。(以下略)」

◎ 50・5・18サンケイ新聞…「故梶山氏 文壇人ら"涙なき送り"」 //「…葬儀委員長は作家の柴田錬三郎さん。参列者は約1200人。(中略)梶山さんから"あにき"と呼ばれていた作家、 黒岩重吾さんの弔辞は、藤本義一さんが代読した。『ショックのあまり、ぼう然としている。やりたいことをやりぬいて、 現代では稀有な清れつな生き方だった。サラバ梶ヨ!』。しめくくりは、戒名を与えた今東光さん。 『残念で腹立たしいことが二つある。一つは雑誌"噂"を復刊できなかったことであり、もう一つは、政治家にしそこなったことだ。 きっと異色の存在として腕を振るったことだろう』。(以下略)」

◎ 50・5・18中国新聞…「1000人がめい福祈る 東京・芝増上寺 故梶山季之氏の葬儀」 //「…式場正面には、眼鏡を光らせ上向き加減にほほえむ故人の大きな写真。葬儀は作家藤本義一氏の司会で進んだ。 梶山氏がルポライターとしてスタートして以来の長い付き合いという沢村三木男文芸春秋社長が最初の弔辞。 /続いて作家の吉行淳之介氏が『梶山季之はたくさんの仕事をして走って行ってしまった。君は野放図な男と思われていたが、 律儀で男らしいい男だった。生前、葬式の必要はないと書いていたが、人生には何度かの儀式はやむをえない。 君の弔辞を読むことになろうとは予想もしていなかった』と述べ、深々と頭を垂れた。/美那江夫人(46)、長女の美季さん(14)が白菊を献花、 会葬者の涙を誘った。この後、参列者全員が献花。続く告別式では、作家仲間の有吉佐和子さん、三浦朱門氏らのほか俳優の田宮二郎夫妻、 自民党の江崎真澄代議士らが次々と立ち、故人をしのんだ」

◎ 50・5・18新聞〈広告〉…「御礼」 //主要新聞各紙に載った会葬御礼「梶山季之こと旅先での死去に際し各方面よりひとかたならぬお世話に相成り  また葬儀にはご多忙のところ多数ご会葬いただき厚く御礼申上げます/長いあいだ梶山季之はその作品  あるいは雑誌『噂』を通じて全国の皆様方より種々お励ましいただきました/誠にありがとうございました (住所・喪主等省略)」

◎ 50・5・19毎日新聞/大衆文学往来「作家の切り死 追悼・梶山季之」尾崎秀樹 //「…彼が香港へ旅立つ直前に、テレビ番組で一緒になり、柴田錬三郎、永井路子の諸氏と大衆文学について話し合った。 彼が教養番組に出席すること自体が異例であり、忙しいところをよく都合してくれたと思ったが、その日の彼はいつになく真面目で、 しかも率直に作家生活の内面を語った。/録画が終った後で席をかえて飲み、2時間ほども話しただろうか。 彼はあまり飲まなかったが、めずらしくいろんな友人たちの昔話をしはじめた。そしてトップ屋時代の思い出話の後に席を立っていったが、 それが東京の最後の夜になろうとは思わなかった。(以下略)」

◎ 50・5・19京都新聞/天眼「追悼・梶山季之」村上兵衛 //「…彼はそのころ、東京阿佐ヶ谷の場所のいいところで『阿佐ヶ谷茶廊』という喫茶店を経営していた。 かたわら、同人雑誌懇談会なるものを主宰し、奥さんもその『道楽』を許している風だった。私が彼に会ったのは、その関係で、 招ばれた会合ののち、私は彼から"同人雑誌作家"のなかから目星い人たちを集めて、新たに同人雑誌をやりませんか、 と相談を受けた。私は当時、『新思潮』(第15次)をやっており、小説が1,2度商業雑誌に売れたころであった。 私は彼に、新しく同人雑誌をやるのは苦労だぜ、きみだったら『新思潮』に入らんか、といって誘った。 梶山君とは、それ以来の交際である。…生意気な評言をすれば、彼は前後して『新思潮』に加わった有吉佐和子さんとともに、 めきめき腕をあげ、今日でも評価に耐えるような短編をいくつか書いていた。彼のデビュー作である『赤いダイヤ』や『黒の試走車』などの骨格は、 すでにそのころからあらわれている。私が、彼にもっとも期待したことは、彼が日本のアレクサンドル・デュマとなることだった。(以下略)」

*週刊誌〔順に、発行年月日 誌名〈便宜上の分類項目〉「特集のタイトルなど」"//"は、内容の要約・抜粋など。一般に"発売日"は発行日の7日〜14日前である。日付順に並べたが、必ずしも発売順とは限らない。ちなみに、判明したものには定価も付記した〕

◎ 50・5・22週刊新潮(15日発売、定価130円)/墓碑銘「作家・梶山季之 香港に死す」1ページ //末尾に「"文壇で最も顔を広い人"の葬儀には、千人以上の弔問客が集まるだろう、といわれる」とある。 《事実、その通りとなった。おまけに"有名な香典ドロのお婆さん"が自宅に紛れ込み、また告別式にも現れ、 葬儀のベテランは「これで梶さんも一流になった」と妙な評価をするのだった》

◎ 50・5・25週刊明星(15日発売、定価130円)/「本誌連載『罪の夜想曲』の作者 梶山季之氏が急逝! 異郷・香港で無念の吐血』2ページ //タバコのピースを片手に、自宅の応接間でくつろぐ写真の上に哀悼とある。前説…「本誌の連載小説『罪の夜想曲』の作者・梶山季之さん(45)が、 11日、取材旅行先の香港で、胃潰瘍のため急死した。月産1千4百枚という伝説的な仕事量、それに酒と女……。 何かに追われるように生き急いだ梶山さんだったが、念願のライフワークに取り掛かった矢先、一瞬早く死が梶山さんをつかまえた」。 小見出し風に「『先生は生涯の恩人です』と田宮二郎も涙」

◎ 50・5・26週刊読書人コラム「泡言録」 //「『さようなら、池島さん。何年後か、あの世でお会いしましょう』――『池島信平対談集・文学よもやま話』(文芸春秋刊)には、 それぞれの対談者によって、いまは亡き池島氏を偲ぶ文章がそえられているが、梶山季之氏の文章の末尾は、右〈上記〉のように結ばれている ▼この本が出版されたのは昨年の2月。それから一年余の5月11日朝、梶山氏は取材先の香港で胃潰瘍のため急逝した。 まだ、45歳の若さであった。(中略)梶山氏の場合は、生前の仕事振りを知るものにとっては、マスコミ戦線での"戦死"といった感じがする ▼…作家に踏み切る動機となったのは昭和36年2月1日夜に起った"嶋中事件"であったという。 深沢七郎氏が『中央公論』に発表した『風流夢譚』に端を発し、右翼少年Kが中央公論社社長の嶋中鵬二邸を襲ったこの事件についてのキャンペーンを、 梶山氏は週刊誌でやろうとしたが、ついに実らず、ノンフィクションからフィクションの道へ転じた(以下略)」

◎ 50・5・28週刊文春(21日発売、特価160円)創刊16周年記念集中特集/(1)『Bunshun Who's Who〔冠婚葬祭〕梶さんが遺した『妻と子に告ぐ』」約1ページ。 (2)亡き梶山季之氏が書いた本誌創刊号の特集記事 再録『"孤独の人"に最良の日 館林ルポ』(昭和34年4月20日号)」// 「昭和34年の小誌創刊時、外部よりライターとして編集に参画した梶山季之氏は、"梶さん"という愛称でよばれていた。 旺盛な野次馬精神と、機関銃のように早く鋭い文章力が驚きだった。それ以上に、稀にみる男らしさと正義感に、 影響されるところが大きかった。その余得はなお残っている。身近な人の死には、自分の心がその人の"生"に対して足りなかった痛みが常にあるのだが、 この意味において、小誌編集部にとり痛切な想いのみが深い。梶さんはいわば恩人であった。/しかし、ふだんの悠揚せまらざる人柄にかかわらず、 なぜか、氏は急ぎ足でわれわれの前を去っていった。いまは、いかにも梶さんらしい創刊号のルポルタージュによって、 その人を偲ぶよすがとするほかはないようである」

◎ 50・5・28週刊サンケイ/「香港で死んだ"文壇ゲリラ"梶山季之氏の『ペンと酒と女』」 //前説…「『マスコミ戦場における壮烈なる戦死』と評論家の扇谷正造氏は形容した。げに、しかりである。 梶山季之氏は60年代から70年代にわたるマスコミ界の常に最前線にいた。そして、この"戦士の休息"は、何よりもまず酒だった。 『酒はストレス解消のために飲むんだ。ハシゴ酒は足腰を鍛えるためのもの』―というこの無頼派の持論も、 病魔にはやはり勝てず香港で客死。享年45歳であった」

◎ 50・5・29週刊現代/「酒豪、性豪といわれた流行作家のもう一つの顔と壮絶な死の周辺/知られざる証言で綴る"私の梶山季之"」3ページ //前説…「公然とスケベエ人間を自称、エンターテイナーに徹した梶さんが45歳の若さで突然逝った。 限りないサービス精神で読者を喜ばせ、接したすべての編集者から愛された人……。 いまはあなたのライフワークが未完成に終わってしまったことを心から惜しみます。天国の梶さん!」

◎ 50・5・29週刊大衆/「悲報・・・書いた飲んだ病んだ・・・作家 梶山季之氏 取材先の香港で急死!」3ページ //前説…「義理と人情の人だった。つきに千枚を越す執筆量、水がわりに飲んだ酒、病魔に対しても『酒を飲んで治す』と豪語していたほどだったが、 ついにその病に勝てなかった。十年間にわたってライフワークとして〈原爆・日韓関係・ハワイやブラジルへの移民〉をテーマに書くはずだった。 マスコミと"夜の世界"を豪快に生きた人だった」//表紙:記事タイトルと同文

◎ 50・5・29女性自身(16日発売、定価160円)/「追悼特集 作家梶山季之氏(46)香港で客死! とほうもなくやさしい男の壮烈なる戦死だった」3ページ //サブタイトルと前説…「生前の酒友、文友たちが痛恨をこめて語る"怪物"作家への弔辞」、 「同時に10本近くの連載小説を書いた男、夜ごと銀座で酒と女を愛した酒豪、性豪といわれた男。その梶山さんが、 真剣にとり組んだライフワークともいうべき作品の取材旅行で血を吐いて倒れた!」

◎ 50・5・29週刊平凡(20日発売、定価140円)/(1)グラビア「最愛の人に付き添われ"声なき"帰国 香港取材旅行中にとつぜんなくなった作家梶山季之氏」(見開き2ページ)、 (2)「追悼特集『娘よ、父の高い志をわかって欲しい…』/梶山季之さん〈香港で急死した流行作家〉(46歳)が愛娘・美季さん(13歳)に当てた1通の遺書」5ページ //前説…「酒を最高の友とし、自由奔放に生き抜いたかに見られた梶山さんも、ひとり娘の、しかも感じやすい年ごろの美季さんには、 やさしいパパだった。/いま切々たる1通の遺書が発見されたのだ」。表紙に「人気作家 梶山季之さん急死! 愛娘美季さん(13)の慟哭」 《「人間は、いづれ死ぬのです。父の事故死を悲しんではなりません。それが、父の運命だったのですから」で始まる遺書は3年前に書かれたもので、 全文は拙著の「そして、最後の旅立ち」(P252〜253)をご覧ください》

◎ 50・5・30週刊ポスト(21日発売、定価130円)/(1)「徹底取材/作家と昭和戦後史 梶山季之氏の『文学・酒・女』を語る25人の裸の証言 /"人生はオ××だァ"と叫んで壮絶に生きた行動は作家の45年の秘められた軌跡」5ページ //前説…「『月産1千枚、日払い税金8万円のスーパー作家』といわれた梶山季之氏の死。人は評して『最後の行動派作家の特攻的戦死』という。 たしかに昭和戦後30年をペン1本で戦ってきた"文壇の戦士"の壮絶な生きざまがある」。 (2)グラビア「季之哀悼 ライフワーク取材中、香港で客死した梶山季之氏の奔放、壮絶の45年」4ページ //表紙:「徹底取材『人生はオ××だァ"』男の中の男・梶山季之氏全エピソード」

◎ 50・5・30 週刊朝日/「愛娘への哀切なる遺書にみる"怪物作家"梶山季之の素顔」(本誌・山下勝利)見開き2ページ //表紙:「梶山季之―この華麗なトップ屋人生」

◎ 50・5・30週刊読売/梶山季之氏 その人間的魅力「梶山季之は死んだのである」田辺茂一(作家・紀伊国屋書店社長)見開き2ページ //「5月11日」のこと、梶山が同書店の支店開設のたびに記念講演にはせ参じたことなど

◎ 50・5・30週刊小説/緊急対談 わが友梶山季之をしのぶ 壮烈な切り死をした作家らしい生きざま(柴田錬三郎VS黒岩重吾) //前説…「梶山季之氏が去る11日香港で急逝した。かねてから計画していたライフワークのための取材旅行中の死であった。 その死は惜しんでもあまりあるものがある。そして、ついに本号に掲載の『渡り鳥のジョー・北投の椿事』が絶筆となった。 /生前誰にも好かれた梶山氏をしのんで、深い交友関係にあった柴田錬三郎と黒岩重吾に思い出話を語ってもらった。 孤独で壮絶な生きざま、と柴田氏。ものすごく繊細でまじめな男、と黒岩氏。いまは亡き友を回想し話はつきなかった」 6ページ《表紙に「渡り鳥のジョー・北投の椿事 梶山季之」とあるだけなのは、印刷の関係で「緊急対談」は入れられなかったのであろう。 なお、本文の「渡り鳥のジョー(第6話)北投の椿事」(挿絵・長尾みのる)は「絶筆」と冠せられている》

◎ 50・6・1サンデー毎日(20日発売、特価180円)特大号/「モーレツ作家 梶山季之氏の"戦死"と文壇過去帳」巌谷大四(文芸評論家)3ページ //表紙:「梶山季之氏の"戦死"と文壇過去帳」

◎ 50・6・2ヤングレディ(21日発売、定価150円)/「"娘よ、私はポルノ作家ではない"梶山さんがコッソリ遺書を!」3分の2ページ //写真:遺影の前に夫人

◎ 50・6・2平凡パンチ(22日発売、定価150円)/WIDE JOURNAL「"性豪"梶山季之が貫いたサービス精神=名器に挑戦して17秒・・・・生まれた"ミミズ千匹"」 //リードに「5月11日の明け方、香港のクイーンズ・メアリー病院で急逝した作家・梶山季之サン(45歳)の告別式が17日、 東京・芝の増上寺でしめやかに行なわれた。産業スパイもの、内幕もの、ポルノものと、広範な分野で活躍した"不死身のカジさん"の一面、 性豪ぶりをしのぼう」。そして、いくつかの性にまつわる"サービス精神"にふれて、最後に「梶山季之氏の死は惜しんでもあまりあるが、 一種豪快なさわやかさを残していってくれた。カジさんの冥福を祈る」とある。写真を含み4分の3ページ

◎ 50・6・3週刊プレイボーイ(20日発売、定価130円)/特別寄稿 柴田錬三郎「追悼 酒と血と女にまみれた最後の無頼派 梶山季之の壮絶な死!!」 //表紙:「特別寄稿 柴田錬三郎 酒と血と女にまみれた最後の無頼派 梶山季之の壮絶な死」

◎ 50・6・3週刊女性(20日発売、定価160円)/「作家梶山季之さん逝く 酒好きなあの人らしい最期でした―遺体と共に帰国。涙の記者会見をした美那江夫人(46)が語る夫の死、 そして愛の日々……」4ページ//表紙:「作家・梶山季之さん逝く。15日涙の記者会見―愛妻・美那江さんとの秘められた二人三脚人生」

◎ 50・6・4女性セブン(20日発売、定価150円)/(1)グラビア「あと10年 生きてほしかった 梶山季之氏が、取材先の香港で客死(5月11日)」見開き、 (2)TOP OF NEWS 5「梶山季之さんの遺書発見!『娘よ!誇りをもって生きてください』」1ページ// (1)は5月17日、東京港区の増上寺での告別式会場と主な作家の参列者

◎ 50・6・5週刊実話/加東康一はだか交遊録「酒・女・ギャンブルに強い小説製造機 奔放無頼の戦士・梶山季之先生の死」5ページ //筆者による思い出と、関係者のコメントを掲載/表紙:「鬼才梶山季之先生の華麗な生涯」

◎ 50・6・6週刊小説/(1)追悼特集「哭 梶山季之君〔連載時評 河内音頭もどき〕今 東光(作家)見開き2ページ、 (2)「〔今週の話題作〕石油戦争を材に現代の問題をつらぬく素朴な正義感―梶山季之著『血と油と運河』」尾崎秀樹(文芸評論家)3ページ、 (3)グラビア特集「本誌に登場した梶山季之氏」7ページ(カメラマン:秋山庄太郎・木村恵一・向田直幹・榊原和夫・林 孝・小林 攻) //表紙:「追悼特集 グラビア特集 本誌に登場した梶山季之氏/哭 梶山季之君 今 東光」

◎ 50・6・14週刊漫画TIMES/奥付に社告「去る5月11日、連載『見切り千両』の原作者・梶山季之氏が急逝されました。 /ここに心からの哀悼の意を表し、お悔やみ申上げます。/週刊漫画TIMES編集部/漫画家 辰巳ヨシヒロ」

 このほか、週刊読書人(50・6・26)などが、先輩作家の追悼文や交友のあった著名人のコメント特集を載せ、あるいはグラビア特集を組んでいる。
*テレビはフジ「3時のあなた」(6・3)で、NHK教育「大衆文学を語る」(5・12,13放映)は最後のテレビ出演だった。
*国外では、ハワイ・ウイークリー、週刊香港、台北新聞などで報じられた。

 なお、その"死の前後"については拙稿「ドキュメント 梶山季之の死」をご覧下さい (初出…『別冊新評』夏季号「梶山季之の世界 追悼特集号」/新評社50・6・20発売)

※ 次回から、「その後の30年」を10年ごとに掲出の予定ですが、その前に、多くの方がふれられている「ライフ・ワーク」について、 梶山自身の言葉などを中心に"考察"してみました。

【参考】梶山季之と"ライフ・ワーク"

 梶山関係のさまざまな資料の整理を続けている美那江夫人は、04年の秋、梶山の自筆原稿「わが抱負」を発見した(後掲)。 これは、梶山が長年温めてきた"ライフワーク"に関する思いを、おそらく亡くなる2年前の夏か秋ごろに執筆し、 旧制中学時代の友人N氏に託していたものという。いわば新聞連載を依頼する"売り込み"用の文章であったらしいが、 なぜかそれも叶わなかった。

 では、梶山にとって、緒についただけで、未完に終ったライフ・ワークに対する"思い"と"悩み"は、どんなものであったか。 自ら責任編集者として主宰した月刊『噂』誌上における「噂の屑籠」を中心に、考察してみよう〔創刊1971年8月号(7月7日発売)〜1974年3月号・全32号〕。
 当初は「営業日誌」であったが、72年新年号から「噂の屑籠」と改題し、連載を始めた。その第一回に、こうある。

〈1〉半年間休養して

 半年以上、月刊誌の小説を休ませて貰うことにした。
 いろいろ憶測が飛んでいるらしいが、私としては十年間走り続けて来て、疲れたのである。それで無理を云って、 半年だけの休暇を頂いた……と云うのが正しい。
 一つには、休養のあいだ、かねて念願のライフ・ワークの準備にとりかかりたい、と云う気持もある。
 材料をしこたま買い込んだのに、庖丁をとらずに死ぬのでは、板前としては死んでも死にきれまい。 なにか、そんな心境もある。
 それともう一つ、休息して、栄養を摂りたいと云う気持も強い。なんだか、脳漿が水っぽくなっていて、 ただ小説をコンベア生産しているような感じなのが、苛立たしいのだ。
 出版社から注文のない作家の方も多いのに、私は贅沢なのかも知れぬ。また不遜だと云う反省もある。 しかし休ませて欲しいのだ、時には――。
 取材だって、最近は人まかせのことが多くなった。これは、よくない傾向である。むろん、ポイントは私自身が取材しているが、 やはり作品の上でのニュアンスが違ってくる。もう少し、作家としての原点に立ち還りたいと思う。そのための休息である。 許して頂きたい。(後略)〔「噂の屑籠」1972〈昭和47〉年1月号〕

〈2〉"血"と"平和"と

 私は三つのライフ・ワークを抱えて、それを書くことを念願としている。
 その三つとは、一つは韓国に生まれ育ったこともあって、日韓併合前後から朝鮮動乱にいたるまでの時期を描いてみたいことであった。
 次に、私の母がハワイ生れの、いわゆる移民の子であったから、移民と云うものを描いてみたい。
 最后に、郷里が広島だから、原爆が市民に与えた影響を描いてみたい(*1)……と考えているのである。
 この三つテーマの、ストーリィを考えると云うことも、伊豆での療養中の楽しみであった(*2)。
 私は、その三つテーマを、三つの長篇にすると云う考え方に、長いあいだ捉われて来ていたのである。
 ところが伊豆の山中を散歩していて、不図――それは本当に、不図としか呼べないような感じであった ――何も三つの長篇小説に仕立てる必要はないではないか……と思い当ったのだ。
 韓国ものにしろ、移民ものにしろ、私が描きたいのは、民族の"血"とは何か、と云うことであった。
 そして原爆ものの方は"平和"とは何か、と云うことである。
 つまり三者のテーマは、民族の血とは何かであり、人間の望む平和とは何か、と云うことなのだ。
 簡潔に云えば、私が描きたいのは、"血と平和"であるわけである。
 私は、そのことに気づいた時、長年、頭の中でモヤモヤと絡み合い、縺れ合っていた糸が、急にほどけて一本の糸になったような気がした。
 麻雀で云うなら、七対子にしようか、対々和にしようか、それとも一気通貫にしようか、……と迷っていた矢先に、 有効牌を引いて来て、ヨシ、清一色だ! と、方針が決定した時のような気持である。和了(あが)れるか、どうかはまだ判らない。
 問題は、これからである。目下は、三つのテーマが一本となり、執筆方針が決まったと云うだけのことだ。
 しかし、その夜、私は長年の重荷が下りたような気持になり、妻とふたり祝杯をあげた。なんだか、倖せであった。 〔「噂の屑籠」1972〈昭和47〉年9月号〕

(*1…ちなみに、梶山の広島・原爆関係の作品は、初期の創作「実験都市」1954、ラジオドラマ「ヒロシマの霧」1958、 「ヒロシマの五つの顔」1958無署名ルポ、「平和屋三人男」1959無署名ルポ、そして小説「ケロイド心中」1971などがある)
(*2…1972年4月21日から翌月末の40日ほど、喀血のため高輪の北里病院に入院。仕事はつづけていた。 その後、伊豆の別荘「遊虻庵」で静養するとともに、書斎を増築する。1か月でという"注文"に地元の深谷建設は27日間で完成させたため、 「二十七日庵」と名づけ、今 東光中尊寺管主からその名を揮毫した扁額をいただく)写真を入れる予定

〈3〉「わが抱負」

 さて、次に掲げる「わが抱負」は、執筆年月日を特定するものはないが、記述内容から推量すると、1973(昭和48)年の夏か秋ごろのことではないだろうか。

わが抱負        梶山季之
 長篇小説を書くにあたって、作者が犯してならない三つのタブーは、時間的に長いことと、地域的に広いことと、 人物的に多いことの三つであると云われている。
 私は敢えて、この長い、広い、多いと云う三つのタブーに挑戦してみたいという野心を抱いた。
 更にもう一つ、これは私見であるが、日本の出版ジャーナリズムは、明治以後、外国物を翻訳して、多額の印税を外国に支払っているのに、 日本ものを翻訳輸出して、外貨を稼ぐことをしない。その意味では、こと出版に関する限り、輸入超過である。
 日本で百万の読者を獲得できる面白い小説なら、全世界で何百万と云う読者を獲得できない筈がない、と私は考えた。 (むろん純文学や、日本的な私小説では失格である)
 私はライフ・ワークと取り組むにあたって、この二つの野心を叩きつけて見たい、と思うのだ。
 時間は、日清戦争頃から、朝鮮動乱頃まで――一、八九〇年から一、九五〇年に至る約六十年間であるが、この間に、 全世界は大きく変貌しているし、人々にとって、決して忘れられない六十年間である。
 地域は、太平洋を中心に、日本(特に広島と沖縄)、朝鮮、満州、台湾、そしてハワイやアメリカ西海岸などに及ぶ。
(大河小説と呼ばず、大洋小説と名づけたのは、このためである)
 登場人物は、日本、朝鮮、支那、米国と多種多様である。
 日本人の中にも、広島県人あり、沖縄県人あり、そして一世、二世があり、正義派もあれば悪党もいる。
 むろん中心人物の家庭は限られているが、兄弟があり、しかも外地での恋愛、政略結婚などが絡み、その子供が成長してゆくと、 ドラマは自然、複雑多岐にわたらざるを得ない。
 ・・・・この大洋小説における一貫したテーマは、"民族の血とは何か"と云うことだ。
 その秘密を、解き明かすために、私は今後の生涯を賭けるのである。

 小説は、正直に云って、どの位の長さになるか判らない。世界で一番長く、一番多くの人に読まれる小説を書きたい ・・・・と云うのは思い上りかも知れないが、そんな気持でいるのは事実である。
 はじめ、日韓問題、移民問題、原爆問題の三つのライフ・ワークを考えていたがために、別冊文芸春秋、小説新潮、 小説現代など、各誌から連載の申入れがあり、その話は継続中であるが、三つのテーマを一本化し、 長時間にわたって執筆するためには、新聞連載がいちばん適していると悟った。
 目下の構想としては、一年連載分を第一部とし、第二部、第三部・・・・と筆を進めて行きたい考え方である。(年間千二百六拾枚)

 第一部は、本篇の主人公を演じる日本人と韓国人の、二つの家庭の人物構成、そして日清戦争の歴史的な背景を描くことに、 主力がおかれるであろう。
 広島県の貧乏村に生まれた三兄弟と、全羅北道の金持の家に生まれた二兄弟が、主人公たちである。
 日本人の長男は、家運の挽回を夢見る金権主義者で、朝鮮で一旗あげようとする。
 次男は義侠に富む人物で、ハワイ移民に率先して応じる。
 三男は、親戚の冷飯食いとなり、後に画家(自由主義者)となる。
 朝鮮人の兄は、敬虔なクリスチャン。しかし後に、変なことから独立運動の闘士となり上海からハワイへ亡命する。
 弟は科挙を目指す立身出世主義者。そのため右顧左眄して、人を陥れたりする。
 第二部は朝鮮が舞台、第三部はハワイが舞台(沖縄県人、中国人が登場)となる予定である。
 ・・・・これが、大まかなストーリーであるが、恋愛、家の問題、貧富の差、思想、学問、国際問題が絡み、更に、  その土地の異った風俗習慣が加わるのだから、かなりじっくりと描いていかねばなるまい。
 従って、第一部では、かなりテンポののろい感じになるだろうが、大切な導入部なので辛抱して頂くよりない。
 目下のところ、新年あたりから、連載可能となる予定である。
 とにかく初心に還って、小説というものに取り組みたいと心に誓っている。《以上、原稿5枚》

 上記(別冊文芸春秋、小説新潮、小説現代など)の一般誌ではなく、自ら主宰する『噂』に書こうと決心したのには、 いくつかの伏線がある。たとえば、『噂』の編集長だった高橋呉郎氏は、こう記している。
 「(48年)4月、『噂』の支部廻り。手弁当で応援にかけつけられた山口瞳氏に、梶山さんは、ライフ・ワークの発表方法について相談した。 山口さんの意見は、はっきりしていた。『書き下ろしでなければ、絶対に駄目だと思う。新聞、雑誌なんであれ、 たとえ何の注文はなくても、原稿料をもらえば、あなたはサービスしちゃうに決まっているもの』  梶山さんは、終始、真剣な表情で相槌を打っていた」(「ああ梶山季之 幻のライフ・ワーク」『月刊現代』50年7月号)。

〈4〉『噂』にライフ・ワークを

 小説を書くにあたって、困難な問題は、ざッと三つあるように考えられる。
 一つは、登場人物が多いことである。
 かりに、百名の人間を登場させ、その風ぼう〈ふうぼう〉や性格を描写していたら、何百枚を軽く費すことであろう。 まして会話させたり、行動させたりしていたら、気が遠くなるほどの枚数を費さねばなるまい。
 二番目は、地域的に広いことだ。
 日本の国内ばかりで風景描写をしても、かなりの枚数を必要とする。
 況〈ま〉して、これが地球上ともなれば、大変である。
 そして最後は、歳月の問題である。
 一日、二日の出来事でも、充分に小説の素材たりうる。
 だが、十年、二十年となると、これは難事業であり、時間の経過、歴史的推移などを描き出すだけで、 ヘトヘトになってしまうであろう。
 たとえば、物価の移り変りだけでも、正確に書こうとしたら、頭の痛くなる仕事だ。
 人物、地域、歳月――これが、小説に描き出す場合に、最も難関となっている。だから、これまでの作家は、 決してこのタブーに挑戦しようとしなかった。
 せいぜい人物が多いとか、時間的に長いとか、一つか二つのタブーに挑んだだけであった。
 私は、文筆を業とする以上、この嘗て誰もが果し得なかった三つのタブーに、挑戦したいと考え、構想をねり、 荒稼ぎしては資料を集めて来た。
 まだ十二分の資料が整っているとは云えないが、なにか機が熟して来た感じである。
 このライフ・ワークを、どう云う形で発表するか、と云うことを、昨年の喀血以来、いろいろと考えて来た。
 新聞連載の話もあり、雑誌社からいろんな誘いもあった。また事実、それは進行中なのである。
 にも拘らず、私は、一つの決意を固めた。それは、自分のライフ・ワークであるから、商業主義に左右されない形で、 筆をとりたいと云うことだ。
 原稿料を貰えば、私のサービス精神から、ついつい筆があらぬ方向に走ることになりかねない。
 かと云って、書きおろしするには、時間の調整がむずかしい。
 そこでいろいろ考えた末、原稿料を一銭も貰えない、この『噂』の誌上に、連載と云う形で発表させて貰うことにした。
 読者の方々には、ご迷惑かも知れない。
 自分の構想では、毎月六、七十枚書いて、十年はかかる感じである。だから、せいぜい八千枚ぐらいだ。
 人物は、日本人のみならず、韓国、中国、ユダヤ、アメリカと多民族に及ぶ。
 地域は、太平洋を中心とした全域――日本、中国、韓国、ハワイ、西部アメリカの多域にわたる。
 時間は、明治百年と云われるように、維新以後から筆を進めて行きたい。

 三つのタブーへの挑戦のほかに、私が考えていることは、翻訳可能な文体の発見である。
 ……なにかに書いたことだが、故川端康成氏のノーベル賞受賞作『雪国』を、外国人はゲイシャ小説だと思っているのだ。 「長い長いトンネルを過ぎると雪国であった」と云う、冒頭のくだりも、翻訳した場合には、日本語としての味わいが薄れてしまう。
 だから私は、日本語としての味わいを無視して、世界各国語に、翻訳されやすい文体を、逆に作り出すべきだと考えたのである。
 明治以降、日本は外国の文学を数多く輸入して来たが、日本文学の輸出は雀の涙ほどであって、外貨を獲得していない。
 私は外貨をタンマリ稼ぐような、そんな翻訳可能な日本語の文体を考え出したのである。
 まあ、私の夢であるが、出版する時には、英・仏・日ぐらいの三カ国で、同時に上梓したいと思っている。
 そうした翻訳可能な、日本語の文体を創り出し、併せて外貨を獲得する……と云う破天荒な事業に、敢えて挑む文士が、 ひとりぐらい存在しても、よいのではないだろうか?
 人は、狂人と呼ぶかも知れぬ。
 しかし、それはそれでよい。題名も、構想も、ほぼ固まっている。テーマは、"民族の血とは何か" と云うことだ。
 言語、風俗、習慣、それに貨幣などを含めて、国それぞれに異っている。
 しかし、地球は一つなのである。
 なぜ、この狭い地球の上で、いがみ合い、犇(ひし)めきあって暮らさねばならないのか?  すべて"民族"と云う黒い血のなせる業なのではあるまいか。
 私は、それを地球人たちと一緒に、考えてみたいと思うのだ。大言壮語めくが、本心である。 (後略)〔「噂の屑籠」1973〈昭和48〉年12月号〕。
 《文中の中ほどにある「なにかに書いた…」は、「噂の屑籠」(1973〈昭和48〉年1月号)の「あのゲイシャ小説……」をさすのではないか。 つづいて「故川端康成氏のノーベル賞受賞作『雪国』」とあるが、授賞式で賞賛されたのは『雪国』『千羽鶴』『古都』であった》

〈5〉ライフ・ワークの題

 今年から、ライフ・ワークの執筆に取りかかる。
 たぶん、十年の歳月は費やすであろう。
 だが、題名がまだ決まらない。
 一応、『民族の壁』という題名――ウォール・オブ・ザ・ネイション――という言葉を考えていたのだが、英文学者に聞くと、 これでは、そのニュアンスは伝わらないのだそうだ。
 私は、題名を決めずに、小説を書きだすモノグサ型なのであるが、今度だけはタイトルが、ビシッ! と決まらないと、 ペンが取れない感じなのである。
 ……なぜなのだろうか。
 とに角、決心した以上、走らねばならない。
 私が、ポルノ小説で荒稼ぎして、せっせと買い込んだ資料をフンダンに使い、そして一大ロマンを書き残しておきたいのだ。
 私は、民族の血とは、いったい何なのかを、この作品の中で問うてみたい。マーガレット・ミッチェルのように、 一作きりで世界の人々に愛される作家もあるのだから――。多作ばかりが、決して能ではない(「噂の屑籠」月刊『噂』1974〈昭和49〉年新春号・2月1日発行・所収)。

 ところが、「新年号からの重ねての増頁となると、紙代、印刷費、製本代が上昇しているので、とても辛抱できない」 (「噂の屑籠」1973〈昭和48〉年12月号)ため、月刊『噂』の定価を200円から300円に値上げしたのは、 1号おいて、「ライフ・ワークの題」を書いた49年2月号からであるが、この"大洋小説"の連載も見ないまま、 次の3月号で予告なしの休刊をせざるを得なかった。その経緯について梶山は最終巻となった第32号(昭和49年3月号)の 「噂の屑籠」に、「休刊のことば」として詳細にふれているが、結びにこうある。「――ご愛読を、どうも有難う。 /だが、これは休刊であって、決して廃刊ではない。/今年中に、必ず、"金も出すが、口も出す" ――新しい季刊『噂』を、 再登場させる決意である」と。

 その後、梶山は市谷の自宅に、旧知の韓国人作家を招いて鼎談を行なっている。没する約一年前、1974年5月30日のことで、 名づけて「民族の血とは何か」。韓雲史さんと柳周鉉さんに、美那江夫人も顔を出している。 なお、二人の著作は柳氏『玄界灘は知っている』3部作、1992〜93年に邦訳。韓氏『朝鮮総督府』1964年。 この鼎談は梶山美那江編『積乱雲』に収録されている。その模様については拙著の「あげまん?」(P211〜213)でもふれた。

〈6〉今 東光氏の弔辞ほか

 1975(昭和50)年5月11日に亡くなった梶山の葬儀は、同17日、東京芝の増上寺会館で行なわれた。 最後に弔辞を述べた今 東光氏は、次のように話す。
 「……いろいろ君の友達がいいことを言ってくれました。もう私は何も補足するものはないんですけれども、 私が残念でたまらない、腹が立ってたまらないっていうのは、もちろん梶山はいくつかの大きな仕事をし残した。 /大体ライフ・ワークをやるんだなんていうことがいけない。ライフ・ワークなんてものは、後になって人が評価することで、 そんなもの書く必要ない。はじめからライフ・ワークをやってるわけなんですから。そういうことはどうでもいいけど、 彼にとって非常に残念だと思うのは、もう一度『噂』を復刊させてやりたい、ということが第一でございました。 これがなんかし残したような、起承転結で申しますると、結が足らなかったと。――/もう一つは、 これは多くの人があんまり気がついておりませんけれど、非常に彼は政界の裏話に通じており、政治に対して関心を持っていた。 こんなに政治の好きな男はない。そうしてそれとなく打診したところが、必ずしも出馬をいやだとはいわない。 他日必ず議政壇上に立って、大いに腕をふるいたいというようなことを、ちょっといっておりました。 /梶山という男が、もう五年、十年長生きしたならば、必ずや参議院か、衆議院に立候補して(*)、 議会における異色ある存在として、別な面で彼は大いに腕をふるうんじゃあないか、あなたにそういう感じを私は受けた。 私はこれがね、大変なんか心残りで、まだ四十五、六のみそらで、死に切れなかったろうと思う。(以下、略)」 (「別冊新評 梶山季之の世界〈追悼特集号〉」1975年夏号・収録)
 (*)梶山に、参院選に立候補してほしいとの打診は実際にあった。亡くなる前年1月のことである。 『噂』最終巻の「噂の屑籠」で、梶山は「参院選出馬依頼」と題して議員特権を6項目並べたあと、 「…国会議員の特典の方はとも角として、政治を内側から眺め、日本にない政治小説を書く……と云うことには、 食指が動いたが、医師の診断で、中止することにした。(中略)オッチョコチョイだから、3年後の参議院選挙あたりには、 出馬するかもしれない」などと記している。この件につても拙著の「失いたくなかった"特権"」(P150〜152)でふれた。

 ついで、梶山が、親友ではなく"心友"といっていた作家の山口瞳氏は、次のように書いている(「梶山季之の経緯」新潮社PR誌『波』1975・06号所収)。

 「……梶山季之がポルノ小説を書きはじめたとき(この方面で彼は先駆者だった)、彼は私がいい顔をするわけがないことを承知していた。 誰かがポルノ小説を書いてもかまわないけれど、彼にはポルノや滑稽小説は向いていない。梶山の真骨頂はそこにはない。(中略)
 梶山季之には志があった。彼と知りあった頃から、一緒に地方都市を旅行すると、寸暇を惜しむようにして、 片っぱしから古本屋に飛びこむ。そうして、韓国問題に関する書物があると、そっくり買いこんで東京の家に送っていた。 /梶山は、何年か先に、三本の長編小説を書くと言った。韓国問題、原爆問題、移民問題という、三つのテーマ小説である。 私はそれは駄目だと言った。三つのテーマがあるなら、それをひとつにして大河小説を書くべきだと言った。 梶山は素直に私の意見に従った。(後略)」

 《山口氏の、前半の言葉「私がいい顔をするわけがない…」に類することは、私も直接、梶山から聞いたことがある。 週刊新潮にエッセイ「ぽるの日本史」を連載中、北里病院に入院していた。用事をかねて病室を訪ねたある日、 梶山はその原稿を私に渡しながら、「早く書かないと(「男性自身」の)"折"と一緒になって、瞳ちゃんがいやな顔するからなあ」と、 ひとりごちたのである(連載…1972・1・1〜12・30〈50回〉、入院…同年4・21〜5月末)。  しかし、後半の「素直に私の意見に従った」については、これまでに見る限り(両人とも亡くなっており)、 真実かどうか判断できないのは残念である》

 もう1人、同〈追悼特集号〉に、もと毎日新聞外信部長の大森 実氏(評論家)は、「血を吐いたライフ・ワーカー」と題して、 ちがった観点からの"ライフ・ワーク論"をつづっている。
 「香港の旅先で、梶山君が血を吐いて死んだという第一報を聞いたのは、私が群馬県の山中で『戦後秘史』の第三巻目の原稿書きに追われていたときだ。 テレビで速報され、「梶山氏はライフ・ワークの取材中だった」とアナウンサーが告げたとき、私は衝撃を覚えた。 私の『戦後秘史』も、ライフ・ワークのつもりだったからで、私は思わず、自分の胃の腑のあたりを押さえていた。
 梶山君と、彼のライフ・ワークについて話し合ったのは、彼が喀血して、高輪の北里病院に入院していたときだ。 彼はベッドを離れ、大宅夫人から贈られたという黒の印ばんてんを着て(*1)、私に茶を入れてくれながら、 彼のライフ・ワークを熱っぽく語りつづけた。(中略)ライフ・ワークとは、読んで字の如く、筆者にとって、 命をかけた仕事を意味するのであろうか?
 梶山君は、ドキュメント作家として世に出たが、何かのハズミで、ポルノ作家に仕立てあげられてしまった。 いつも、彼は口癖のように言い訳をしていた。「ぼくは出版社を儲けさせているのだ。だいぶ儲けてもらったので、 このへんでライフ・ワークにとりかからせて欲しい」
 だが、そういう梶山君に、儲けた出版差の側で、ライフ・ワークを書く機会を与えた社はなかったのだろうか?(*2)
 アメリカの『内幕もの』で知られるドキュメント・ライターのジョン・ガンサーは、僅か一冊の内幕作品を四年か五年がかりで書いていたことを私は知っている。 そのガンサーが、『オーストラリアの内幕』を半分書きかけて死んだとき、出版社のハーバー・ロウ社は、編者のウイリアム・フォービスに、 ガンサーの名前で、後半部を書き通させ、ガンサーの著作として上梓した。ガンサーにとっては、『内幕もの』の一冊ずつがライフ・ワークとなっていた。
 ウイリアム・フォービスは、その後、ガンサーの遺志を継ぎ、『日本の内幕』を書くために来日し、東京に居を構え、 家族もろとも、腰を据えて、『日本の内幕』と取組んでいる。アメリカの出版社のスケールの大きさもさることながら、 ライフ・ワークと名のつく仕事は、このようにして書かれるべきだという手本を示しているかのようだ。
 私も梶山君の発心と、あたかも時を同じくして、何度も試みて果たし得なかったライフ・ワークらしきものと取組んでいるが、 予想もしない、いろんな物心両面の困難に逢着して、いまや立往生しながら、改めて、ライフ・ワークが、 筆者の命とりになりかねないものだということを、切実に痛感しはじめている。
 そういう意味あいからも、梶山君の死に衝撃を覚え、同時に、何としても、彼をして、ライフ・ワークをやり遂げさせてやりたかったと、 残念がる点では、梶山未亡人の心境に全く同感であり、不覚にも、わが胃の腑のあたりを押さえていた次第である。」
 (*1…背に大きく「噂」の一文字が書いてあった)
 (*2…もちろん、出版社側が"無視"したわけでないことは梶山自身も書いている(前掲〈3〉〈4〉)。 一方、死の直後、美那江夫人は岩川隆氏〈作家、故人〉のインタビューで、次のように答えている。 岩川「予定としては半年に1巻ずつ、5、6百枚のものを本にされると聞いてましたけども……」。 梶山「そうね。新潮社との約束で、1年に2冊ずつ、という計画だったから」。岩川「5年やそこらでは終りませんね」。 梶山「10年計画ですよ。最低10年は必要。ですから、自分は無茶な生活していても、あと10年は生きられるだろう、 10年生きればいいんだ、と思ってたわけよね」)…(「夫のライフ・ワークを語る 『積乱雲』の構想はこうして生まれた!」 『別冊新評 梶山季之の世界〈追悼特集号〉』1975年夏号)

〈7〉私の「梶山季之とライフ・ワーク」考

 このように、梶山自身が悩んだだけでなく、他の方にも心配をかけたが、私は拙著『梶山季之』の、 最後の項「死の予感」で「ライフワーク」として、次のように記した。

 「ライフワークをやろう、などと言ってはいけない。それは後で人が評価するものだ」と今東光氏は、弔辞の中で故人を叱った。
 ライフワークとは、その人の生涯の仕事、一生をかけてする仕事、というような意味だろうが、梶山自身それを知らなかったわけではない。 ではなぜ、ライフワークをやろう、などといったのだろうか。
 その言葉を口にし出したのは、四十六(1971)年の暮れごろ、ある文芸出版社の編集者に「そろそろ大河小説(ロマン)を書きたい」ともらした。
 また、翌四十七年一月号の『噂』に、
 「半年以上、月刊誌の小説を休ませて貰うことにした。……材料をしこたま買い込んだのに、庖丁をとらずに死ぬのでは、 板前としては死んでも死にきれまい。なにか、そんな心境もある」とも書いている(前掲〈1〉)。
 それが編集者仲間に知れわたり、どんなものですかと問い合わせがあったり、ぜひわが社から出版をという気の早い申し入れも幾つかあった。
 休筆宣言により、四十七年一月から完全に一年間、月刊誌への小説掲載は休んでいる。翌四十八年には執筆を再開し、 以前ほどではないが、また小説を書きはじめ、週刊誌のほうもほとんど変わらず連載を続けていた。
 そのころはまだ、大河小説の構想はまとまっていなかった。(中略)
 ところが、ある日、それらが血と平和の問題であり、太平洋を中心にして互いにつながっている、 テーマは三つではなくて一つだ、環太平洋小説を書けばよいのだと、ようやく決心がついたのだった。
 それが、幾つかの書き出しだけで終ってしまった『積乱雲』である。
 この壮大なタイトルが決まるまでも時間がかかった。一つの海、一つの空、民族の地、民族の壁、などと、空とか海、 雄大さを表わす言葉はないかと、諸橋轍次著の『大漢和辞典』とにらめっこすることもたびたびであった。
 また、英語訳でも通じる題名をもと考えており、パール・バック女史の『大地』は見事なタイトルだと呟いていたことを思い出す。
 なぜ、ライフワークという言葉にこだわっていたのか?
 梶山の心境を推し量ると……、やれエロ作家だ、ポルノ作家だといわれながらも、ずっと読者と編集者に奉仕し続けてきた。 しかし、それは本来の私の姿ではない。そういう仕事も、そろそろ勘弁してもらってもいいのではないか。 来日中のハワイ大学教授ジェームズ・荒木氏に心境を語ったのもこのころだ。作家を目指して上京した初志は、 そんなところにはなかったのだ、というところであろう。
 ≪先の大森実氏の文章より引用部分「ライフ・ワークとは、・・・、『このへんでライフ・ワークにとりかからせて欲しい』」を挟み…≫
 二度目の喀血・入院をする前に、休筆したりして、徐々に仕事の量を減らしてきた。方向転換したいという気持ちを、 編集者にも匂わせてきた。しかし、彼らは個人的には理解を示すものの、商売ともなれば話は別だ。よそ(の雑誌)に書いて、 ウチに載せないなんて困ります……と。
 その気持ちも分かる梶山にアセリが出てきた。いつまでも、こうしてはいられない。早く取りかからなくては、と。 自分の本当にやりたい仕事、生涯をかけてやる仕事に取りかからせてくれという悲鳴が、 「ライフワークをやろう」という宣言になったのではないだろうか。
 『積乱雲』というタイトルも決まり、当初は書き下ろしで新潮社から半年に一巻ずつ、十年かけて出版ということだったが……。
 実際に取りかかったのは、四十九年の夏からだった。
 その八月、取材と美季さんの語学の勉強もかねて、一家三人でハワイへ行った。帰国後の八月末には、 広島・地御前村へ取材にも行った。十一月に再び広島へ、その足で京都の大文字屋旅館にこもり執筆を開始する。(以下、略)

〈8〉10年前の抱負…

 ところで、この10年前、1965年から翌年にかけて講談社から「梶山季之傑作シリーズ」(全7巻)が刊行されている。 短編を集めた最初の自作アンソロジーだが、梶山はその5巻目『歪んだ栄光』の「著者あとがき」の後半に、 すでにこう記していた。

 『李朝残影』は、直木賞候補になった作品で、その意味でも懐かしい。ただ小説の結末が、あまりにも安易すぎると批評されたが、私も同感である。 しかし、この小説を書いたとき、これは長篇の第一部のつもりであったことを触れておきたい。 第二部、第三部を執筆できない儘に、今日に及んでいるが、私がなまけ者の故為である。
 生来、欲の深い方で、私は作家として立つことになったとき、三つの作品を書き残したいと考えた。 一つは、日系人の移民史である。いま一つは、日韓併合前から、朝鮮動乱までの、日韓裏面史であった。 そうして残りの一つは、原爆以後の広島である。いずれも、取材に出かけたり、かなりの文献も集めているが、 いつになったらとりかかれるのか予想もつかない。困ったことである。(1965年11月発行)

 これが、"ライフ・ワーク"の真相であろうし、なぜそれに早く取りかかれなかったのかも、ここに示されたとおりである。

 【タイトル「積乱雲」について…美那江夫人によると、決まらないと書き出せないといっていたタイトル(「積乱雲」)も決まり、 京都の定宿にこもって書き始めたのが、1974年11月に入ってからとのことです。では、タイトルはいつ決まったのか。 これまで、市谷の自宅で"積乱雲"と書いたメモをみせられた夫人は、京都行の直前だと思っていたそうですが、 昨04年のある日、故人の手帳にこの3文字を発見したことにより、亡くなる半年ほど前(昭和49年10月)、 気の置けない人たちとヨーロッパ(フランスの片田舎)に遊んだとき、飛行機の中で書いたのが最初だと判断したとのことでした。 もっとも、地上はるか上空で、小さな窓から見えた雲、それが積乱雲であったかどうかは分からないということですが……】

≪つづく≫


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