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梶山季之 没後30年 I. 梶山季之の"死"
梶山季之 没後30年 II-1. その後の30年1975〜1984《後》
梶山季之 没後30年 II-2. その後の30年1985〜1994
梶山季之 没後30年 II-3. その後の30年1995〜2004
さらにその後 IV. 2005(平成17)年〜

梶山季之 没後30年II.その後の30年(1)1975(昭和50)年−1984(昭和59)年《前》

II、その後の30年〈1〉1975〜1984

《前》1975-1976

 昭和50年(1975)から10年ごとに、作品の単行本化(文庫・新書を含む)や、アンソロジーとして収録(再録)されたもの、 さらに第三者によるさまざまな記事・談話・写真などを時系列的にまとめました。
 事項の分類が多岐にわたり、やや煩雑かもしれませんが、一人の作家をめぐる"動き"として、ご理解ください。
 もっとも、ある事項について複数の記事等がある場合は、《特集》という形で、まとめております。
 下記の「1、事項の〈分類〉」および「2、〈分類〉における内容の"配列"」を参考に、ご覧いただければ幸いです。

 事項の1、〈分類〉の内訳と、その2、"配列"は次のとおりです。
1、事項の〈分類〉について
〈小説〉…自作小説の掲載(〔 〕内は原稿枚数)/〈エッセイ〉…自作エッセイの掲載/〈初出〉…未発表作品の場合 /〈再録〉…主として雑誌に再録(転載を含む)された場合/〈アン〉…アンソロジーとして収録されたもの
〈書評・紹介〉…第三者による小説等の書評あるいは内容紹介(解説を含む)/〈引用〉…作品(の一部)が引用されたもの
〈特集〉…雑誌等で、作品や人柄・思い出を中心に特集したものなど/〈人物評・論〉…人物評あるいは人物論 /〈エピソード〉…梶山に関するエピソード/〈話題〉…"梶山"が話題として登場する場合/〈名前〉…"梶山"の名があるもの /〈弔辞・追悼〉…梶山に対する弔辞、追悼文など/〈交友〉…純然たる梶山との交友を語る場合など
〈写真〉…被写体となったもの(「グラビア」を含む)⇒写真・グラビアの全容はこちら《撮られる―グラビア/写真集―》 /〈ラジオ・テレビ・映画など〉…⇒ラジオ・テレビ・映画関係はこちら /〈色紙〉…自作の色紙およびその掲載/〈広告〉…死後、雑誌等の"広告"に登場する場合
《夫人》…梶山美那江夫人(美季さんも含む)による執筆・談話・出演等をさす

2、〈分類〉における内容の"配列"について
(ア)梶山の作品を収録の[単行本]、[新書]、[文庫]の表示はいずれも、発行年月〈版型〉書名/出版社名//備考、とする⇒文庫の全容はこちら
(イ)アンソロジーの場合は、発行年月〈アン〉収録された小説等の題名/編者名『書名』/出版社名//備考、とする⇒アンソロジーはこちら
(ウ)再録(転載を含む)の表示は、発行年月〈再録〉再録された梶山の小説・エッセイ等の題名/『書名』/出版社名//備考、とする。
(エ)雑誌等に掲載された梶山の〈小説〉〈エッセイ〉〈特集〉〈色紙〉等の表示は、発行年月日〈・・・〉「雑誌名/題名〔枚数〕//備考、とする。
(オ)話題として"梶山"が登場するものは、雑誌・書籍等の発行年月日〈話題〉「雑誌名など」出版(発行)社名/タイトルほか//備考、とする。

3、なお、僭越ながら、時に《  》で囲んで、私(橋本健午)の"コメント"を付記しております。 主として、拙著『梶山季之』(日本経済評論社1997・07)で触れたことなどです。

II−1)1975(昭和50)年−1984(昭和59)年

◎ 50・5・12,13〈テレビ〉NHK教育〈座談会〉大衆文学を語る2//「大衆文学をこう書く」というテーマで、初期の『黒の試走車』と"産業スパイ"にふれたあと、 「私はもっといわゆる社会組織といいますか、機構といいますか、そういうものを書いてみようと思うの。まあトップ屋育ちのせいもありますけどね。 そこへメスを当てなければいけないと。…自分で連載書く以上、売れなきゃあいけないと。売れるのは何かということで、 そういうほうに移転して行ったわけですね。だから編集の人、出版社には喜ばれていると思うけど、私自身は税金を取られるだけで、 (笑い)何もプラスはないわけですよ。…」。出席者は他に柴田錬三郎・永井路子・尾崎秀樹の各氏(5・4録画)。 なお、録画日の梶山については、この追悼文の冒頭にある尾崎秀樹氏の「大衆文学往来『作家の切り死 追悼・梶山季之』」 毎日新聞(50・5・19)でふれられている。
≪さっそく僭越な行為で恐縮だが、この録画・放映に関し、「マスコミひょうろん」(52・06)にある「三周忌を迎えた 梶山季之香港急逝の謎を追う!」 (松永憲生・ルポライター)に、次のような描写がある。「…多少骨相学の心得のあるという新聞記者のI氏が、梶山氏の顔面に"死相"を発見したのは、 死の一週間前の1975年5月4日。この日、柴田錬三郎氏らとテレビで対談。新聞社の横浜支局でテレビを見ていたI氏は、 『梶山さんは元気がないな。"死相"が出ているじゃないか、かなり疲れているのかな』と、つぶやいた。…」(原文は新聞社もI氏も実名表記)。 渋谷のNHKで録画中のものが、横浜のNHKとは関係のない新聞社支局で"見る"ことができたのだろうか。 話した当人か取材したルポライターのどちらがウソなのか分からないが、無責任な記事といえる≫

◎ 50・5・29週刊新潮〈話題〉「売卜記・第17話 死の凶相」五味康祐(作家)//梶山の死に関し、旅先で急逝する人は大部分、 手相にその予兆が出ているといい、梶山の場合、その一つ"旅行線"が「生命線の流年で観ると、45,6歳のところに入っていたにちがいない」とし、 …「梶山君の死を、彼の令嬢の手相から判じることも可能だったわけで、どちらかの手相を拝見していれば、私に何がしかの忠告はなしえたろうにと、 この点が心残りである。(生前の彼とはほとんど私は会う機会がなく、交際もなかった)」と記す。
《この(  )内の言がウソであることを、私は拙著の「筋を通す、手を貸す」の章、冒頭の"銀座の決闘"で、 俳優田宮二郎の証言と「週刊サンケイ」(昭和42年1月2日号)の記事「五味康祐と梶山季之の銀座の決闘」を紹介した(P182)。 私が美那江夫人に「死んだら負け、ですね」(拙著P154)といったのは、こういうことを指す。その後、夫人も口にしたらしく、 広島で行なわれた三回忌にあたり、読売新聞の企画記事〈52年5月3,4日〉に、「死んでしまったら負けよ」との発言が載っていると、 梶山の旧友である大牟田稔氏が記している(「安藝文学」42号:特集・回想の梶山季之)》

◎ 50・5・29週刊現代〈話題〉競馬真剣勝負・第19弾「名人 山口瞳VS.馬苦労 橋本邦治」 //見出しの下に「〈アルゼンチン共和国杯〉友人梶山季之氏の死にじっと耐え、形見の双眼鏡を手に当たりまくった名人久々の快勝」とあるのは、5月11日のこと。

◎ 50・5・29アサヒ芸能〈名前〉おれは野次馬「死とは一体なんだろう」桐島洋子(評論家)//梶山の死その他に関して…

◎ 50・06〈小説〉怪女赤頭巾譚(6)赤頭巾の死〔60〕/オール讀物//

◎ 50・06〈小説〉猛宗竹<小説・梶山交遊録>〔50〕/問題小説//(田辺茂一)

    ≪特集1≫昭和50年、週刊新潮「男性自身」の山口瞳氏と梶山季之の関係

 《なお、山口氏の梶山に関する記述は、このあとの「男性自身」(51・3・4私の混合酒//51・11・25京の夢//51・12・30酒乱の種類//52・5・26五月十一日//52・6・2相撲の帰り//62・5・28梶葉忌//など)に限らず、かなり多くのものにうかがうことができます》

◎ 50・6・6週刊ポスト〈エピソード〉News Makers「カップの切り方、バンカーも自在 柴田錬三郎氏ゴルフ場にみる"小説より奇なり"」 //前書…「作家・柴田錬三郎氏にゴルフ場をポンと贈呈するお人も不思議だが、それをもらって"柴錬好み"のコース作りに命をかける(?) 世にも不思議な物語」(注:贈り主は来島グループの総帥・坪内寿夫氏〈61〉、柴田氏の小説『大将』のモデル)。 そして、こんな話を披露する。「この作家とモデルの出会いは約10年前、つい先ごろ香港で客死した作家の梶山季之氏が 『松山市に面白い人物がいるんじゃが一緒に会いに行きませんか』と柴田氏を誘ったのがそもそもの始まり。 その時は梶山氏のほうが、坪内氏をモデルに小説を書く算段だったが、坪内氏と対面するやいなや柴田氏、 梶山氏のヒザをポンと叩いて、『よしもらった』といった。狂四郎の円月殺法のごとき早業。 『柴錬さんに坪内氏を持っていかれた』と梶山氏はユーモラスな筆致で書き残している」

◎ 50・6・20週刊小説〈人物評・論〉編集後記//峯島正行編集長は、梶山の"もぐり弟子"を自認する森村誠一氏の連載小説が好評だとふれたあと、 次のように記す。「…森村氏が未だ小説を書き出す前、麹町の某ホテルに勤め、フロント主任をしていた頃のこと、 このホテルの一室を梶山氏が仕事部屋に使うようになりました。その頃梶山氏も新進作家でしたが、その後数年、 このホテルで仕事を続けている間に、たちまち流行作家となり、数多くの作品を生み出したわけです。 その間、森村氏は、フロントで編集者に渡す原稿を預かったり、言づてを頼まれたりしたそうです。生原稿を見る機会もあり、 梶山氏の日常から、いろいろと作家のあり方を学んだのだということです。 『ぼくが作家になるには梶山さんに陰ながら教わったことが多いんです。梶山さんは、私たちホテルの従業員に対しても、 礼儀正しく、親しく接してくれました。流行作家として偉ぶるなどということは全くありませんでした。 だからホテルの従業員皆に好感をもたれていました。それから普通ホテルに泊る人は、部屋代の金額以上には、 食べ物やその他に使わないものなんですけど、(梶山さんは)いつも部屋代の何倍にもなってました。 これは訪ねて来る人に気前よくご馳走するからでしょう。こんなところも梶山さんらしいですね』と思い出を語っていました」。

* ここから、月刊誌も加わります。〔順に、発行年月 誌名〈便宜上の分類項目〉「特集のタイトルなど」"//"は、 内容の要約・抜粋など。なお、雑誌は前月発売が多いが、当時"小説雑誌"は前々月発売でした(8月号は6月22日発売)。 発行月順に並べたが、必ずしも発売順とは限りません〕

◎ 50夏季号 別冊新評〈特集〉/梶山季之の世界 追悼特集号//全ページ

◎ 50・07〈小説//タイトルのみ〉ヒコーキ心中/小説現代//

◎ 50・07〈小説//タイトルのみ〉<日本縦断・艶笑千夜一夜5>さんふらわあの恋/小説宝石//

◎ 50・07風景〈エッセイ〉古い物の味〔4〕//

◎ 50・07「波」〈色紙〉裸にて 生まれて来たに 何不足//色紙は表紙に

◎ 50・07小説CLUB〈エッセイ〉伊豆での暮らし〔10〕//(作家聞き書き・リレー随筆)//表紙:「梶山季之氏遺稿掲載」

◎ 50・07中央公論(06・10日発売、定価350円)〈人物評・論〉眠堂酔語〈12〉「梶山季之の行方は何処?」柴田錬三郎 //書出しに「昭和50年5月11日未明、梶山季之が突如として香港で客死し、14日夜、英国風の立派な寝棺に物云わぬ身を横たえて帰国した。 /そのために、私は、周辺の人々に推されて、生れてはじめて葬儀委員長をつとめた。/梶山季之が、宗教に就いて、 どれだけの知識を持っていたか、今となっては、知る由もない。ただ、生前、彼が、公にした随想、 夫人に書きのこした遺言状には、『通夜は盛大に騒いでもらいたいが、葬式は無用、墓も要らぬ』とあったところから推測して、 神葬、儒葬、キリスト教葬などの葬儀に関心はなかったものと判断された」ところから、告別式のやり方などに言及し、 ついで"葬儀"について日本の歴史に触れ、また通夜その他における関係者の人間模様などについて述べる。 後半に、「梶山季之は、一流新聞社、一流出版社の記者も、社員が二三人の小さな出版社の記者とも、 その大小を天秤にかけた交際はしなかった男である。(以下、略)」

◎ 50・07文藝春秋(06・10日発売、定価350円)〈人物評・論〉「流行作家 香港に死す」村島健一(評論家) //リードに「すごい勢いで走り去ったやさしい男、梶山季之」/…38年夏、『李朝残影』が同年上半期の直木賞候補にノミネートされた。 戦前、朝鮮の京城にいた日本人の画家と妓生のふれ相を描いた、しっとりと落ちついた名作である。純文学に近い。 書きたくて書いた中篇であった。しかし、受賞したのは佐藤得二氏だった。発表があった後、結果の伝令役を演じさせられ山口瞳さんといっしょに、 梶さんは拙宅の家庭騒動をとり鎮めに駆けつけてくれた。なんて男だろう。困る。/せんだって香港へ飛ぶ数日前、 梶さんは美那江夫人に語りかけた。「あのとき受賞していたら、もっと違う道を歩けたかもしれないね。 注文も変わっていたろうし」。夫人は梶さんの口から、はじめて辛みの言葉を聞いた。どんな目に会おうと、 ぜったいに愚痴をこぼさぬ人物であった。(後略)《「直木賞を受賞していれば…」に関して、 山口瞳氏も「男性自身」50・7・3号「遠くなってゆく」のおしまいに、村島氏とは別のニュアンス「彼のような男にも『文学の毒』があったのか」などと書かれている》

◎ 50・07文藝春秋〈話題〉「中国・一九七五年春」曽野綾子(作家)//リードに「私の会った中国の人たちは皆誇りにみちていたが」 /小見出し「文学者は経済的大エリート」のなかで、作家の収入についてふれ、「原則は月給でランクによって決る。 最高は320元(51,000円)最低が50元(8,000円)。他に1,000字につき20元(3,200円)から8元(1,280円)くらいの歩合があるという。 中国ではエリート中のエリートである」としたあと、「私はふと思いついて、先日亡くなった梶山季之氏の仕事ぶりを当てはめてみた。 梶山氏は当代第一の売れっ子だったから月給は51,000円級であろう。従って、梶山氏は千字につき20元の歩合をもらうことになる。 梶山氏は最盛期には月に千枚ずつ、つまり40万字を書いたといわれる。これで計算すると、梶山氏は中国でも何と133万の月収、 年収にして約1,600万円の高額所得者となる」。さらにつづけて、「もっとも、梶山氏のような文学が、人気があるからと言って、 中国で最高級の作家と認められるかどうかは私にはわからない。逆に執筆停止になるかも知れない。その方が問題である」

◎ 50・07文藝春秋〈話題〉社中日記「 月 日/小社とは何かと縁の深かった梶山さんの突然の死が、四十代社員に深刻な打撃を与えている。 『やっぱりオレは酒を断つ』と池田吉之助がこれで何度目かの禁酒宣言をすれば、進藤隆も『煙草を絶つ』。 刺激されて、プレイ中年を自称する半藤一利までが『オレは○○○を絶つゾ』。通りかかった松坂博、 『これがホントの四十にして絶つか』。ともあれ梶さんの御冥福を祈る」(注:「断つ」⇔「絶つ」、原文のまま)

◎ 50・07現代〈人物評・論〉「ああ梶山季之 幻のライフ・ワーク」高橋呉郎(元『噂』編集長) //リードに「雑誌『噂』の創刊以来、香港への死出の旅まで"民族の血と平和"への執念を噴出させた、 私にしか書けないトップ屋作家の胸中」/…(49年)1月21日、70日間の異常乾燥の果てに雪が降っていた。 昼近く事務所に行くと、梶山夫人に呼ばれた。梶山さんは、伊豆に行っていたが、ピーンと来るものがあった。 「梶山が二日間考えたすえ……」 むろん、休刊である。私に異存のあるはずもなかった。梶山さんが、 少しでもライフ・ワークに専念できるようになれば、それでよいと思った。おそらく、梶山さんの短い生涯のうちで、 もっともつらい二者択一だったにはちがいない。 だが、この時、私は、夫人の口から意外な事実を知らされた。 「梶山は、おじいちゃんが生きているうちに、ライフ・ワークを一字でもいいから見せたかったんです。 それができなかったのが、かなりショックだったようです」 私は、自分のバカさ加減を恥じた。あれだけ身近に接していながら、 ついに心情を察知できなかったのである。(以下、略)

◎ 50・07正論〈話題〉風林火山「ルポ・ライターを掃滅せよ」三田一夫 責任編集 //「(ルポ・ライターについて)いまの若い人には、すべてに〈基礎〉がなくて、先人の技巧のみマネたがる。 遠藤周作氏のあの駄文は、キチンとした基礎教養があって、はじめて書けるものなのだ。梶山氏がトップ屋を自称したのも、 基礎教養を上まわる才能があればこそで、そんなのは、千人、万人に一人なのだ。(以下、略)」

◎ 50・07新評〈人物評・論〉週刊誌月評F「"夭折"した梶山季之の死を悼む・月刊プレイボーイの創刊/千家紀彦3ページ//

◎ 50・07日本推理作家協会報〈追悼〉「梶山季之氏を悼む」結城昌治(作家) //「さびしくて仕様がない。机に向かっていても、レコードを聞いていても、いつの間にかぼんやりして彼のことを考えている。 もう彼の話をするのは止そうと思いながら、彼と親しかった人に会うとつい彼の話になってしまう。 それも供養のひとつだと自分に言い聞かせているが、彼が香港で急逝して以来そんな日が20日あまりつづいている。 /最後に彼とあったのは4月22日だった。…」⇒結城昌治著『昨日の花』朝日新聞社刊1978所収(「病縁機縁」のうち)

◎ 50・07婦人倶楽部(06・18日発売、定価540円)《夫人》「どうして逝ってしまったの!」(談)5ページ //リード:「『浮気したことを許してくれ、と夫はいい遺して死んでいきました』/異郷で急死した夫 /梶山季之氏との22年の愛の思い出」

◎ 50・07別冊近代麻雀・麻雀研究〈人物評・論〉緊急特集 梶山季之とマージャン/グラビア「"賭け"た人 梶山季之・・・噫々」 …勝負事でもサービス人間(有馬将祠)//表紙:「緊急特集 梶山季之とマージャン 柴田錬三郎・吉行淳之介・大隈秀夫ほか」

◎ 50・07酒〈再録〉百杯のお茶より一杯の酒〈新春随想・近ごろ私の酒・三十九人集(48・01同誌エッセイ)〉より一部 //"扉"に色紙「酒」の一字もある

◎ 50・07信州の東京〈人物評・論〉急死した梶山季之ほか―伊那の東京人・交友余話―/加藤一夫(光文社取締役出版局長)//

◎ 50・7・15財界〈人物評・論〉この事件 何を教えるか16「経営者に見る"非情"の功罪」三鬼陽之助(財界相談役) //冒頭に小見出し「梶山季之"高評"の裏」と題し、「過般、45歳の若さで急逝した作家の梶山季之氏は、元総理、 佐藤栄作氏と同様、いなそれ以上に"死に花"を咲かせた。理由は簡単明瞭、若さに似合わず、実に親切で、思いやりが深く、 ことに惜し気もなく、他人のためにも金を使ったからである。事実、私は、故人より20余も年上であるのに、 故人がルポライター時代、いささか親切にアドバイスしたという理由もあったが、何年間となく季節の贈呈に接した。 これは、この種の交友関係では、絶無に近い現象であった」。(以下、略)

◎ 50・夏季号 別冊小説新潮〈話題〉「アンケート●近況報告 とても悪い状態」山口 瞳 //「梶山季之が死んでしまって、私は、いっぺんに五歳ぐらい齢をとってしまったような気がしている。…」

◎ 50・夏季特別号 別冊問題小説〈特集〉(1)グラビア「梶さん、いまは亡し」、(2)座談会「生きた 愛した 書いた」 (村上兵衛・小堺昭三・岩川隆・高橋呉郎)、(3)《梶山季之と私》今東光「弔梶山季之君」、黒岩重吾「残酷な運命」、 結城昌治「壮絶に生きて死んだ」、藤本義一「梶山さんへの報告」、阪田寛夫「鳥の顔」、成田豊「友よ永遠に安らかなれ」 (電通・新聞雑誌局長)、三好淳之「豪放さと優しさと」(三好興産社長)、(4)「小説 梶山季之」田辺茂一 //表紙:「梶山季之追悼特集」

◎ 50・7・10週刊実話〈話題〉"壮烈な戦死"がピタリの梶山氏に残されたモノは? 遺産どころか"借金"さえも… //「人生ドラマ追跡特集」(2)として

◎ 50・7・10週刊サンケイ《夫人》夫の未完小説をひきつぐ故・梶山季之夫人の麗筆 //「週刊明星」連載の『罪の夜想曲』の残り8回分を3回にまとめる……

◎ 50・7・17週刊サンケイ〈話題〉人物ワイド 今あからさまに非難されている地位も名誉もある人の言い分 ―梶山氏の葬儀で柴田錬三郎氏に噛みつかれた田辺茂一氏―『中央公論』//梶山の葬儀のとき柴田氏が、 花輪の名札を外したことに関して

◎ 50・08小説現代(06・22日発売、定価360円)〈話題〉連載紀行〈湖沼学入門〉第5回「梅雨涸沼〈つゆのひぬま〉」山口瞳(作家) //第2項目の「泡沫の霞ヶ浦」で、かつて梶山との講演旅行の途中、時間があり二人で遊覧船に乗り、酔っている梶山に山口氏は 「このままどっかへ行こうか」といった思い出などを記す

◎ 50・08小説現代〈追悼〉編集部から//「梶山季之氏が亡くなられました。本誌には創刊号より連載の「実力経営者伝」から、 最近の"心中シリーズ"まで、数多くの力作を発表していただきました。ここに、謹んで哀悼の意を表する次第です」。

◎ 50・08小説宝石(06・26日発売、定価**円)/梶山季之追悼特集/自作「一押し二金」/今東光「梶山君への別辞」 ・吉行淳之介「弔辞」・黒岩重吾「さらば梶よ」・三浦朱門「処女作の頃の梶さん」・坂田稔「ああわがよき友よ」 ・佐野洋「先取りの精神」//

◎ 50・08〈単行本〉稲妻よ、奔れ/新潮社//「小説新潮」連作

◎ 50・08波〈人物評・論〉「稲妻小僧」/兼川晉(テレビ西日本調査役) //『稲妻よ、奔れ』の校正をしながら、主人公午之助と梶山季之の人生がダブるのに……

◎ 50・08新評〈話題〉週刊誌月評(8)「公取委が"検閲"にのりだした?・"トップ屋""ルポライター"の復権」/千家紀彦//

◎ 50・08ウーマン《夫人》夫に突然、死なれて分かった夫婦の距離//対談:十返千鶴子

◎ 50・08婦人生活《夫人》夫梶山季之逝って二ヵ月 いま私が思うこと 女の人生対談//対談:増永静人(医生会指圧センター主宰)

◎ 50・08婦人公論《夫人》独占手記 夫梶山季之の知られざる戦い//

◎ 50・なつ 火片VOL74〈人物評・論〉「梶山季之追慕」岸本 徹//

◎ 50・8・1週刊朝日〈エピソード〉野坂昭如のオフサイド'75連載30「『事後運動』を終えるにあたって」 //講演会の演題について:梶山の「近頃思うこと」の便利さなど

◎ 50・8・13女性セブン《夫人》"壮絶なる作家の戦死"その後 梶山季之氏未亡人告白「戦友としての22年間が私たちの夫婦生活でした」 //写真2枚、約1ページ分

◎ 50・8・28週刊文春〈エピソード〉第1線ノンフィクション・ライター競作シリーズ(9) 沢木耕太郎「小説『赤いダイヤ』外伝 三菱商事―小豆相場戦争に破れて 『七人の侍』は除社、藤野忠次郎氏は残った」 //スポーツニッポン新聞に連載の『赤いダイヤ』を執筆する直前の梶山季之の姿を描くかのような冒頭の部分を、 少し長いが再録しよう。「十年以上も前のことになる。/当時、相場の町、日本橋蛎殻町にあった『商品と投資』誌の編集部に、 眼鏡をかけて痩せた男が下駄ばきでふらりとやってきた。編集部といっても穀物取引所の近くのしもた屋に机を並べただけのもの、 狭くて暗かった。だが、男の顔はそのためばかりでなく、明らかに病み上がりのような顔色だった。 /男は譲ってほしいものがあると言った。その頃『商品と投資』誌上には、老齢の相場関係者によって『赤いダイヤ物語』という回想録に似たものが連載されていた。 男の望みはそのタイトルが欲しいという奇異なものだった。/ちょうどその場に居合わせた、現『商品と投資』誌主幹の藤野洵は、 その男の迫力を鮮烈に記憶にとどめた。両手に大きな紙袋を持ち、その一方には『リテンション関係資料』、 もう一方には『小豆』と大書してある。ほんの少し口をきくと、リテンションがいかなるものかを熱中して喋りつづけた。 /しばらくして、『赤いダイヤ』という小説が、テレビや映画にまで及ぶ大きなブームを巻き起こしたとき、 藤野洵ははじめてその男が梶山季之という名だと知った。/『赤いダイヤ』はノイローゼになった作家のピンチ・ヒッターという偶然により、 北里病院に入院中の彼にお鉢が回ってきた。/そして『スポーツニッポン』紙上に2年間にわたって連載された。(以下略)」 《『赤いダイヤ』は集英社版、同自選作品集・第1巻、同新書版、文庫の角川版と集英社版につづいて、2004年12月に「パンローリング」社から新書版(上下)が刊行されている》

◎ 50・8・30微笑《夫人》夏のバカンス緊急調査ワイド 一挙掲載!これが有名人の別荘だ! //「伊豆」:夫人のコメント「今年の夏は、この別荘の書斎に、梶山の骨を、墓に納める前に、安置してやりたいと思います。 梶山もなつかしがると思いまして……」

◎ 50・09小説現代〈人物評・論〉「おもろいやんか 小説〈梶山季之〉」青志編/岩川 隆//

◎ 50・09小説宝石〈追悼〉読者のページ//ア)梶山季之氏が異郷で客死されて、はじめて読者のための作家を失った気持ちが胸に迫る思い。 (前号の追悼特集を読んで)あらためて氏の優しさ、まじめさ、サービス精神、作家としてのすぐぐれた資質を知りました。・・・。 イ)追悼特集を味読、病に倒れた私には、そのはかなさがしみじみ感じられ、脂ののった作風にずいぶん期待していただけに、 氏の早逝が惜しまれてなりません。

◎ 50・09[アン]負け犬/日本文藝家協会編『現代の小説 1975年度前期代表作』三一書房//

◎ 50・09[新書]奇妙な人たち/講談社//「現代」シリーズ「現代奇人伝」

◎ 50・09 PocketパンチOh!〈名前〉文化人(作家・漫画家etc…)の派閥全解剖//才能集団のインサイド(2)(筆者:高橋呉郎)

◎ 50・9・8サンケイ新聞〈書評・紹介〉「理想を託した遺作」中田耕治(作家)/『稲妻よ、奔れ』新潮社//

◎ 50・9・11夕刊フジ〈書評・紹介〉「奇異な主人公の人生いきいき―まるで筆者の生きざまを」中田耕治(作家) /『稲妻よ、奔れ』新潮社//

◎ 50・10小説宝石[再録]海師ボルギュウ/小説宝石10周年記念特大号「名作再見」 //表紙に「現代の一流作家31人を網羅した豪華小説フェスティバル」/解説「海師ボルギュウ」について(尾崎秀樹・文芸評論家)⇒詳細は後ほど

◎ 50・10・1 The Hawaii Hochi〈話題〉「梶山氏の著書/7千冊ハワイ大学に寄贈」 //「この寄贈は、梶山季之氏の未亡人の依頼を受けて大森実氏(元毎日新聞外信部長、現評論家)が仲介の労を取ってハワイ大学松田総長に申し出たものである」。 内訳は1)米国、ハワイに関する移民の資料500冊、韓国の歴史文化950冊、広島原爆資料150冊、エルサレムの資料40冊、 2)人文、社会科学に関連した地誌学的資料2100冊、3)人物評、終戦、占領に関する資料、経済、関東大震災、左右両翼団体の資料、 風俗史、日本の方言史等2900冊、4)文学名選集例えば歌舞伎の台本、日本県別史、日本教育史、日本風俗史等が7千冊外に寄贈されている、とある。

◎ 50・10・3朝日新聞〈話題〉「ハワイ大学に梶山季之文庫/未亡人が蔵書寄贈」//

◎ 50・10・8夕刊フジ《夫人》「大宅・梶山 師弟の縁継いで 昌・美那江未亡人、励まし合ってきた5ヵ月 /梶山蔵書 大宅文庫とハワイ大学へ//第1面に、両夫妻の写真4枚と

◎ 50・10・11中国新聞《夫人》「ハワイ大学にカジヤマ文庫/『移民』『原爆』の7千冊/故季之氏の未亡人 蔵書を寄贈 //写真説明:ハワイ大学に送る書籍の整理に忙しい美那江未亡人(東京・市谷の自宅書庫で)

◎ 50・10・10週刊朝日〈書評・紹介〉週刊図書館・特集「『スパイ小説』から『共産党論まで』 ―読書週間に贈る名著ベスト3はこれだ」//スパイ小説(日本)…選者・丸谷才一(作家) 「(1)結城昌治『ゴメスの名はゴメス』、(2)梶山季之『黒の試走車』(集英社)評-産業スパイものの代表。 出発当時の梶山の馬力がすばらしい。読みごたえ十分。(3)堀田善衛『スフィンクス』」

◎ 50・10・19サンデー毎日〈話題〉「たくましい企画で 大映が連続ヒット」 //「来年度の目玉の一つとして予定されているのが故梶山季之原作の実録小説『生贄』」とある

◎ 50・10・23 GORO〈話題〉全大学生必読特集・読書の秋に協賛「100冊の本 この秋キミはこの本を狙え! ギャンブルから古代史まで古今作家の珠玉の名作から精選」 //「有名人の交友相関図は」項の冒頭に「死んだ梶山季之氏は、『友達は、男の財産』と、いつも口グセのようにいっていた」

◎ 50・10[新書]怪女赤頭巾譚/文藝春秋//「オール讀物」連載

◎ 50・10[アン]遺書のある風景/??『ミステリー選集3 殺しこそわが人生』角川文庫//

◎ 50・10[単行本]罪の夜想曲(上・下)集英社//「週刊明星」連載

◎ 50・10〈人物評・論〉梶山季之/百目鬼恭三郎『現代の作家101人』新潮社//

◎ 50・11文藝春秋〈話題〉座談会「医者を選ぶも寿命のうち」 //前説に「佐藤元首相、作家の梶山季之氏、ルポラーター・児玉隆也氏と、このところドラマティックな死が相次いだ。 これはそれぞれの死を緒に、第一線の少壮医師が本音を語り合った、いわば"現代の最高の医学とは何か"である」とあり、 梶山の香港での死に関して「不運だった梶山さん」の項で、司会の渡辺淳一(作家・札幌医大卒)が「日本の場合、 (医者の報酬を)3倍あげると、不正をしている悪い医者も3倍になるから(笑)困るんですよ。日本人というのは、 人間の命はみんな平等という考え方が強いですからね。それで医をカネで計算するのをいやがるわけです。 /梶山季之さんが香港で亡くなったケースも、そういうことをちょっと考えさせるんですが、 彼が最後に入院したのは香港でも大きい、いい病院だったらしいけど、大部屋だったんですね。 だから、ぼくの感じではカネをあまり使ってないんじゃないかって気がする。 彼は胃潰瘍で吐血してそのまま亡くなったということですが、日本ではちょっと考えられないでしょう。 あれはまず輸血しなきゃいけませんね」。これを受けて、庄司祐医師(日本医大教授・外科・東大卒)は 「胃潰瘍というお話のほかに、肝硬変だったと説も聞くんです。そうなると、たとえ輸血しても間に合わなかったかもしれないですね。 しかし、とにかく香港の病院の大部屋というのなら、はっきりいってたくさんのおカネを使ってないといえるでしょうね。 旅行者の行き倒れ的な扱いを受けた可能性があります」などと話す。⇒「50・12文藝春秋」参照

◎ 50・11別冊小説推理'75初冬特別号[再録]歪んだ栄光/文芸作家ミステリー名作特集//

◎ 50・11[アン]小説 三億円事件/中島河太郎編『小説推理 三億円事件』グリーンアロー社//

◎ 50・11安藝文学・39号〈特集〉(2)追悼 わが梶山季之//

◎ 50・11・24週刊読書人《夫人》紙てっぽう「『安芸文学』の梶山季之追悼//梶山美那江「昭和28年4月14日」と題する梶山の上京にまつわる思い出など14編。 他に収録作品の紹介記事あり

◎ 50・11〈人物評・論〉梶山季之/古葉竹識『耐えて勝つ』講談社//

◎ 50・11・14日刊ゲンダイ〈話題〉「有名人が震える梶山氏の遺稿」 //「さる5月香港で亡くなった作家・梶山季之氏の納骨式が、11日鎌倉の瑞泉寺で行なわれたが、最近、市谷の書斎から、 筐底記〈きょうていき〉なる極秘メモが出てきて、美那江夫人を驚かせている。 /発見された『筐底記(遊虻庵山人)』は、原稿用紙50枚ぐらい、いつごろ書かれたかは不明。 /『トップ屋・小説書きとして、マスコミでメシを食って16、7年、いろんな事件にぶつかり、活字にできないような、 すべてプライバシーにふれることばかりに接してきた。(中略)活字にする、しないは別として、書き残しておくことは、 何らかの参考になると思う…』という、書き出しで始まる。このメモは、アイウエオ順に、人名と事件が列挙されており、 サービス精神旺盛といわれた故人の、知られざる一面を見る思いで、びっくりするようなことばかりだったという。 /この内容が公表されたら世間に衝撃というものだが、梶山氏逝って内心ホッとしている人も多かろう。 虎は死して皮を残すというが、この遺稿、梶さんのもっとも書きたかった作品だったのではなかろうか」

◎ 50・12文藝春秋〈話題〉投稿欄「三人の椅子」…「梶山氏の本等の死因」(東京 自由業 高橋呉郎 42歳) //全文を引用しよう。11月号の座談会「医者を選ぶも寿命のうち」で、梶山季之氏の死に関する個所は、 いささか事実が誤り伝えられているような気がします。つまり、香港と日本の医療体制のちがいによって、 最善の治療を受けることができなかったのではないかといった疑問が出ておりましたので、 実情を明らかにしておけばと思った次第です。/私は故梶山氏とは、雑誌『噂』をつくってきた間柄ですから、 氏が客死されたときの模様にも大きな関心を払って関係者に詳しく取材してきました―― /それによると梶山氏の死因は『食道静脈瘤出血と肝硬変』でした。悔やまれるのは、5月7日、香港マンダリンホテルで吐血したときに、 ホテル嘱託医が"胃潰瘍"と診断したことです。このため、嘱託医の指示で近くのカノッサ病院に救急車で運ばれたあとも、 輸血、点滴など胃潰瘍の応急手当のみが施されたようです。カノッサ病院が療養所程度の病院だった点は、 不運というしかありません。/不運といえば、翌8日、梶山氏のかかりつけの東京の某大学病院教授が、 現地の医師に治療の指示を与える手はずになっていたのですが、国際電話がストのため、果たせませんでした。 その間、病人の出血は止まらず、輸血を続けたので、かえって肝臓の機能が弱まってしまったようです。 /9日になり、東京・香港の医師間の連絡もとれ、より設備がよく、また、外科の世界的な名医がいるクイーン・メアリ・ホスピタルに病人を移すことになりました。 しかし、病院間の話し合いに手間どったのか、移送が終ったのは、夜9時過ぎになってしまいました。 /結局、吐血後、丸々2日以上も、通り一ぺんの胃潰瘍の手当てしか受けられなかった点が、致命的だったようです。 なお、カノッサ病院入院直後から、現地の事情に明るい日本航空の駐在員の方などが、終始、交代でつきそってくださったので、 異国の"行き倒れ"的な印象は皆無でした。また、9日夜、クイーン・メアリ・ホスピタルにかけつけた梶山夫人の話では、 "大部屋"の措置は、医師、看護婦ともいたって機能的で、望み得る最善のものだったとのことです。 ⇒「50・11文藝春秋」参照《やはり、死んだら、負けである!! なお、香港の状況など、拙稿「ドキュメント 梶山季之の死」をご覧下さい》

◎ 50・12小説現代〈人物評・論〉「おもろいやんか―小説梶山季之・青嵐篇―」岩川隆 //リード的に、「飲んだ、走った、書いた…週刊誌時代の幕開けをトップ屋として背負った男の意気と苦悩」とある ≪これは連載だが、未完の由≫

◎ 50・12・15週刊読書人〈話題〉NEWS TOPIC GOSSIP出版天気図「時効成立前に 三億円事件関係書が続々」 //梶山の作品「小説三億円事件」は中島河太郎編『推理小説三億円事件』(グリーンアロー社)に収録。 「6編の小説のアンソロジーだが、このうち梶山氏の作品は、事件発生後3ヶ月に満たぬうちに書かれたもので、 さすがに週刊誌の記者出身らしくスピーディに取組んだ作品だった」と評され、他に岩川隆の「真犯人をつきとめた!」も収録。 彼は別に『謀略三億円事件』(エルム)も出している。《私事を申せば、梶山の助手になって2年ちょっとの昭和43年12月10日に起きたこの事件で、 ベテラン岩川氏について大阪や九州まで飛んだりした(拙著「三億円事件」P96〜99参照)。 その経緯は岩川氏の筆になる「週刊文春」の特集「梶山家を震撼した"三億円犯人"情報―タレ込み"真犯人はアイツだ"を追跡して―」 (44・3・31)に詳しい》

◎ 50・12・16中国新聞〈人物評・論〉「山かこむなか 梶山季之・墓前のつどい /虚像のなかの華麗さ 『天邪鬼』同人との徹夜の談」岩崎清一郎(「安芸文学」主宰) //夫人を交え13人の『天邪鬼』同人が集まり、故人について語り合う……

◎ 50・12・22週刊読書人〈話題〉「山本容朗の文壇レポート」(文芸評論家) //この年6回目を迎える"文化人のど自慢"(徳間書店)に関連して、「この舞台も、レギュラーでトリをつとめていた梶山季之がいない。 主催者側に、梶山を偲んで、テープにとってある彼の歌声を流すというプランもあると聞く。/梶山季之の突然の死が惜しまれる年であった」

◎ 50・12・25週刊現代〈写真〉「秘蔵写真で綴る 昭和50年、50人への惜別の辞」 //カラーグラビア(一部モノクロ)佐藤栄作(元首相・74)や石坂泰三(経団連名誉会長・88)など各界の著名人に交じり、 梶山はこの年正月に一家3人で撮った写真

◎ 50・12・27週刊読売〈話題〉本誌恒例☆猛爆・誤爆座談会「'75今年の主役ベスト10、ワースト10」 //ベスト10:第3位…梶山季之(流行作家・取材中に香港で急死)、第1位…広中平祐(文化勲章受賞) ―〈出席者:吉行淳之介(作家)・鈴木義司(マンガ家)・長部日出雄(作家)・戸川昌子(作家)〉

◎ 50・12・29週刊読書人〈話題〉「文壇10大トピック」山本容朗(文芸評論家) //(1位)梶山季之氏、香港で客死す…「梶山季之氏の急死が、30点、満点で最高点なんてのも、なんとも悲しい。 丁度、日本経済の高度成長の始まった頃、流行作家になった梶山氏。そして、それが転機にかかった時に、彼は、突然、 姿を消した。梶山季之氏自身にとっても、大きな方向転換の時期であった。/時代を鋭敏な感覚で先取りし、 それを小説に取入れるのが、この作家の特色の一つであった。考えて見れば、梶山氏は、高度成長という怪物の犠牲であったかも知れない。 /残されたライフ・ワーク『積乱雲』の書きかけの原稿が、なんとなく空しくうつる。この作品に賭けた彼の情熱を思うと、 完成させたかったと誰れでも思う。/だが、告別式で、今東光氏が、『作家のライフ・ワークなんて、その時、その時の作品がそれで、 改めてやるもんじゃない』と、いっていたのを強く思い出す。/梶山氏のポルノといわれる小説だって、そうだったのだ。 梶山氏が亡くなった後、彼のやったその辺の仕事の評価が見えないのを、不満に思う」。 なお、(2位)埴谷雄高氏、26年ぶりに、小説『死霊』の第5章を発表、(3位)松本清張氏、宮本共産党委員長と創価学会会長池田大作氏との会談の橋渡し役を果す …「選挙のたびに両組織の末端で無用な紛争が起こり、それが国民のために何ら益のないことだと思ったからである」と、 橋渡し役の松本氏は「『仲介者』の立場について」(東京新聞50・8・9)で書いている、という

◎ 50・時期および掲載誌不明〈人物評・論〉「五月の雨」/澤村三木男(文藝春秋社長、随筆家)//

    ≪特集2≫昭和50年、広島カープの初優勝と梶山季之の関係

1976(昭和51)年

◎ 51・01[アン]瀬戸のうず潮/中島河太郎・権田萬治編『日本代表ミステリー選集7 殺人者にバラの花束』角川文庫//

◎ 51・01〈名前〉第161問 トップ屋とはなにか……/出版ニュース社編著『本の問答333選 付・出版界を築いた人々』出版ニュース社 //"トップ屋"の命名者、由来、「梶山グループ」など

◎ 51・02婦人生活〈引用〉多角度"夫"研究特集「家庭を忘れて浮気にのめり込む夫」 …「趣味・習慣で見抜く法 浮気が本気になる夫の四つのタイプ」青木雨彦(評論家) //他に、菊本治男(弁護士)・白石浩一(心理学者)⇒詳細は後ほど

◎ 51・02小説CLUB〈交友〉新リレー随筆「不良文士・不良画家」大歳克衛(画家)//⇒詳細は後ほど

◎ 51・03婦人倶楽部《夫人》精一杯、男として生きた夫の想い出/講談社//対談:檀ソヨ子(故・檀一雄氏夫人)6ページ //前書:「仕事に命をかけ、家庭を顧みず、自由奔放に生きた夫の急性に直面して――」

◎ 51・03主婦の友《夫人》緊急特集・夫の突然の死 ライフワークを完成させずに逝ったかと思うと、それがかわいそうで……//談話3ページ

◎ 51・3・5朝日ジャーナル〈作品紹介〉批評と紹介「談話室」岩川隆(作家)//この年2月に発覚したロッキード事件に関連してか、 石川達三の『金環蝕』の読後感で、汚職と証人尋問の甘さなど日本の汚職は往々にしてごまかされやすいと説いたあと、 「かつて梶山季之は"事実は小説より奇なり"という一句を口にしてルポライターから小説家に転じた。 これは一見矛盾しているようだが、じつは"真相は小説でしか書けない"といい逆説的な意味を含んでいる。」 …ついで、松本清張の『蒼ざめた礼服』『深層海流』『日本の黒い霧』などは「推理が現実の内幕を見抜く作品」という。 さらに、梶山の『夢の超特急』、桃源社版『疑獄の発生・政界篇』所収の『悪徳政商』『小説防衛庁』『ごろつき新聞』 『陰謀と札束』、そして『大統領の殺し屋』にふれ、佐賀潜の『代議士逮捕』『黒幕』『影の棲息者』、 そして山崎豊子『華麗なる一族』を紹介し、最後に梶山の『ある秘書官の死』は、 「自民党総裁選で資金調達に巻き込まれたばかりに自殺しなければならなかった"内閣官房秘書官"と、 彼を死に追いやったからくり」を暴露していると説明する。《ところで、梶山が『大統領の殺し屋』(光文社49・04)の末尾に 「この作品は、すべて架空の物語です。しかし、もし事実の部分があるとしたら、筆者が何らかの形で報復されるでしょう。 念のため」と追記し、本のカバーにも「これは"架空の国の物語"である。だから、読者が、どう勘ぐろうと、 それは作者の責任ではない。読者の身勝手な推測なのである。しかし、芥川龍之介は言っている。 /『私は不幸にも知っている。嘘によってしか語られぬ、真実もあるということを』――。小説は嘘である。真っ赤な偽りである。 荒唐無稽、作り話である。/私はそう思っていただきたいと思っている。もし、私が何らかの形で、官憲から報復されることがあったら、 そのときはニヤリとしたらよろしい」などと記していたため、1年後に香港で急死したとき、"謀殺か"などと思わぬ憶測を呼んだのだった》

◎ 51・3・29(夕)日本経済新聞〈引用〉広告「石上君……田所係長の報告書の写しがあったね。出してくれたまえ」 …『黒の試走車』(角川文庫より)//広告主:OFFICE TOTAL PLANNINGライオン「ライオン事務器」 (情報が生きる/オフィスを考える スタッキング・キャビネット)

◎ 51・04[単行本]那覇心中/講談社//表題作は49・08「小説現代」掲載

◎ 51・04[単行本]小説GHQ(解説:山口瞳)光文社980円//「週刊朝日」連載

    ≪特集3≫『小説GHQ』の刊行…話題・広告・書評など

◎ 51・05ちよだライフ95《夫人》園芸文化論「おおむらつつじの思い出…」/「特集 春から夏にかけての家庭」1ページ/千代田生命保険//

◎ 51・5・5夕刊フジ〈話題〉「季之残影」もあらたに…梶山さん、つつじの花咲く一周忌 //前説に「《今年もまた、つつじが咲きはじめ、爽やかな季節が…》と美那江未亡人の挨拶状とともに梶山季之著『小説GHQ』が親しかった友人たちの手元に届いた。 …十余年前に週刊誌に連載した作品を、一周忌を迎えて一冊の本にまとめたものである。 ほかに『那覇心中』という短編集も刊行された。そして5日に梶山さんが『日刊親善のためにぜひ』と希望しながら果せなかった映画『李朝残影』が東京12チャンネルで放映され、 11日にはにぎやかに故人をしのぶパーティーが開かれる。つつじは今年もまた咲いているのに、梶山さんは還らない。 だが、仲間たちの間に"季之残影"はいよいよくっきり描かれているようである」

◎ 51・5・5日刊ゲンダイ〈話題〉原作者・故梶山季之氏の一周忌を前に/幻の日韓合作映画『李朝残影』初公開!// ⇒詳細は後ほど

◎ 51・5・12毎日新聞〈話題〉「雑記帳」欄//「梶山季之を偲ぶ会」について⇒詳細は後ほど

◎ 51・5・12サンケイ新聞〈話題〉各界から400人が集う 一周忌で『梶山季之を偲ぶ会』// ⇒詳細は後ほど

◎ 51・5・12新聞名不詳〈話題〉故梶山季之氏をしのぶ//「梶山季之を偲ぶ会」について

◎ 51・5・12女性セブン《夫人》5月11日、一周忌==梶山季之未亡人『悲しみはいいたくない。私だけの道を選びます』 // 家族の写真など3点(取材記事)

◎ 51・5・13夕刊フジ〈話題〉「しょーとショート」欄//「梶山季之を偲ぶ会」について

◎ 51・5・13日刊ゲンダイ〈書評・紹介〉「忙しいビジネスマンのための 新刊ダイジェスト」『那覇心中』 //「淡泊で"清廉"な私小説群/故梶山季之の最後の作品集/自叙伝的な『中山俊吉もの』」

◎ 51・5・15毎日新聞〈話題〉大宅文庫で公開へ 梶山季之氏の蔵書6千冊//⇒詳細は後ほど

◎ 51・5・20週刊文春《夫人》"戦死"して一年 夫・梶山の「浮気公認」私生活の真相〈ゲスト〉梶山美那江さん /イーデス・ハンソン対談124//文藝春秋5ページ//

◎ 51・5・29週刊読売〈話題〉描くことを楽しんだ"画家・梶山氏"絵の具を盛り上げ、見るたびに変化する //顔写真と"代表作"「農夫」の絵

◎ 51・6・19週刊読売〈人物評・論〉週刊誌が生んだヒーローたち〈フリーの先駆者、草柳大蔵/"トップ屋・梶山"の誕生 /ユニークな人材供給の媒体〉/植田康夫//「特別企画 週刊誌 内幕と功罪」のうち

◎ 51・07別冊小説推理'76初夏特別号[再録]ギャンブル小説名作特集「〈ルーレット〉ギャンブラー」//

◎ 51・9・17日本経済新聞〈話題〉私の履歴書25「文壇の友」梶山から大きな影響 /高見順に危急を救われる(田辺茂一・紀伊国屋書店社長)//「…文壇にもいろいろ友達がいたが、昨年亡くなった梶山が、 最高の友であった。前記の高見順、そしてこの梶山が、私の人生に、一番、係り合いがあったように思う。 …梶山の場合は、ただ飲み、食い、そして遊んだりしていただけの仲であったが、この私と25も年の違うこの青年に、 私の味気ない独り旅を、肩をたたき、声をはげまして、どんなに勇気づけられたか知れない。 …昭和43年夏、私は書店としてはめずらしく、アメリカのサンフランシスコに紀伊国屋を出したが、その折、 友人知人42名の一行で、向こうへ出かけた。そして、帰りしな、ハワイに寄り、土地の有力者時岡政幸氏の厚意で、 カハラヒルトンの招待パーティーにみんなで望んだ。その折、私はあいさつをしたが、そのスピーチのさなか、私の眼が、 遠くにいた梶山季之の眼と合った。その瞬間、私は絶句した。そのまま声がでなかった。原稿で、一番忙しいなかを、 一週間もの長い間、私のために、この旅に参加してくれたのである。その感動が、私の胸に来たのである。『梶山よすまない』。 私は当然絶句してしまったのである。(以下略)」

◎ 51・11[新書]黒の花道/廣済堂出版//「オール讀物」シリーズ(12話)//文藝春秋新社『暗い花道』改題(11話まで)

◎ 51・11・25週刊新潮〈話題〉京の夢/山口瞳「男性自身」671 //家族と友人の4人で福山へ行き、近くの府中市に車で出かけた。 「…『恋しき旅館』という名は忘れようとしても忘れられるものではない。…以前、講演旅行のとき、梶山季之と一緒に泊った。 内儀に聞いてみると、それは10年前のことであるそうだ。(中略)私たちは、梶山の泊った離れに寝ることになった。 10年前のその日の朝の8時頃、庭を歩いていると、梶山の咳き込む声が聞こえてきた。おいと呼ぶと、障子があいた。 梶山は週刊誌の小説を描いていた。いつでもそんなふうだった。(以下略)」

◎ 51・11・29文藝春秋祭り〔パンフレット〕〈話題〉「なぜ出演するのか?」陳舜臣(作家)、 「血玉の思い出」藤本義一(作家)//二氏の小文に、文士劇(兜カ藝春秋主催)で共演した梶山に関する思い出、エピソードが語られている

◎ 51・12・10大宅文庫ニュース(第8号)〈話題〉故梶山季之氏の蔵書の寄贈を受ける//説明に、「書籍と雑誌で総計3,754冊 /『新青年』は大正9年1月創刊号〜昭和14年7月〈昭和12年欠本〉とほぼ完揃に近いもので、大へん珍しくここまで揃っているものはなかなかみつからないと思えます。 梶山氏がいない今、寄贈を受けた資料を一日も早く分類整理し、より多くの人々に活用していただくことしか、 故梶山氏にむくいることはできないと考えております。なお、美那江夫人より寄贈書の整理費用だと申して梶山氏の一回忌の会費の黒字分50万円の寄付を受けております」

◎ 51・*《夫人》梶山季之夫人 梶山美那江/イーデス・ハンソン『ハンソン対談』講談社//9ページ // 初出:「週刊文春」51・5・20号

◎ 51・12・30(52・1・6合併号)週刊新潮〈話題〉酒乱の種類/山口瞳「男性自身」676 //

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