「人前で話す…」その1
せいぜい数人で談笑するならば気楽でよいが、多少の謝礼をいただく場合など、それなりに準備をしたり、緊張したりするものである。
これは人数にも謝礼の多寡にも関係はない。
大勢の人の前で初めてしゃべったのは、小学校1年の夏休み、赤痢で死んだ同級生(女子)の葬儀で、クラスを代表して、
先生の書いた“弔辞”を読まされたときだった。
練習の時も“本番”でも、弔辞そのものは素直に読めるのに、最後の自分の名前のところでなぜか小さな声になるのだった。
恥ずかしがり屋だったのかもしれないが、大人になっても、つまずく、あるいは首尾よく行かなかったと後悔することがあるが、次の機会は41歳の時に巡ってきた。
当時、勤めをしながら、それとは別に文章関係や漢字の本などを書いていて、その年6月、本橋 游名で『らくらく文章ゼミナール』という本を出した。
しばらくすると、未知の方から何と「日常文章のつくり方」について講演してほしいとの依頼が来たのである。
依頼者には「しゃべるのが苦手だから、書いたんですよ」と言訳をしたが、とにかくお願いしますといわれ、
その10月はじめ地方都市で開かれた損保関係の鑑定士の皆さんの前でお話することになった。
全国から150人ぐらい集まる予定のところ台風の影響で減ったというが、それでも100人を超えていたか。
事前に、また当日朝も予習をして、しゃべりたいことはいくらでもあったが、もともと文章が苦手という方たちの集まりで、
ダジャレや冗談を言いたいのだが、みな真面目に受け取られて、なかなか通じないということを知った。私だけでなく、皆さんにも不満が残ったのではないか。
仕事がら、ある勉強会の講師として10回(10社)以上も呼ばれたが、これは“授業”であるから、それなりに進めることが出来る。
つまり、話す側と聞く側に共通認識があれば話しやすいといえるが、時にはこちらよりよく知っている方がおられるから疎かにはできないし、
また勉強させてもらったと思うこともしばしばである。
ピンチヒッターとして、49歳のとき(91年11月)大阪まで行ったことがある。当事者(出版)側として、「コミック本と青少年」という当時、
全国的に問題となっていたテーマについて一般市民向けに話すというものだった。全く見ず知らず、どんな方たちがどういう動機で来られたかも分からない。
このときもかなりの予習をしていったが、会場に入ると、3,40人の男女が座っており、その前の講師席が一段高くなっている。
これはまずいと気づいた私は「高いところからお話するような内容ではありませんので…」と断わり、横長のテーブルを皆さんと同じフロアに下ろして座った。
すると、何人かの方から拍手が起こった。“受け”を狙ったわけでもない、予想もしなかったことだが、いわゆる“つかみ”というのはこういうことかと思ったものである。
それから、主催者に紹介されて本題に入った。決して楽しい話ではなかったはずが、時間いっぱい、状況や歴史を淡々と説明し、
質問にも丁寧に答えることができ、私自身もひそかに満足できるものだった。
「人前で話す…」その2
〈承前〉一方、講演を依頼され、それなりに予習をして当日に望むのだが、どうしても“も一つ調子よく行かない”というか話している最中に、
もどかしさを感じ、そのまま不完全燃焼というケースが間々ある。これは、かなり悩ましい問題である。
司会(主催)者が、4,5分にわたり私の経歴や近況などを詳しく話してしまうときに起こる。
演題に入る前に、フロアの皆さんともども肩ならしをというつもりで、口にしようとすることを先に話されると、
少しずつ上げてきたモチベーションがだんだん萎えてきて、「それでは橋本さん、お願いします」と言われたときには、ほとんどゲンナリとなってしまっている。
タレントや有名人であれば、聴衆はそれなりの予備知識と“期待感”をもって聞こうとする姿勢で、その一挙手一投足にも反応するであろうが、
私のような未知の人間の場合は、司会者の話の間、どんな声でどんな話し方をするのかと、一斉に注視されていると思うと、紹介を受けている間は気が気でない。
ところが、彼は私がどんな人物かを聴衆に知らせようという善意の人であるから、事細かになるばかり。
05年7月千葉県での「ノンフィクションと私」、同12月都内での「旧海軍の慰問雑誌から見た戦前の出版事情と、いまの日本」であり、
そして07年5月広島での「生まれ故郷朝鮮と梶山季之」では、私の名前を「橋本健午」ではなく「橋本**」と他の演者とミックスされる始末で、
私は思わずテーブルの前面に張られた大きな名札を確認したものである。これなど悪意はなくても、出鼻をくじかれた私には躓く元になる。
要するに、私はいつまで経っても“うぶ”のままなのかもしれない。
ちょっと話はそれる…。
私は、落語家などが同じ演目を何度も演じる(毎回少しずつちがっているのであろうが)ことが驚異に映る。
つまり、同じ話を繰返して、よく飽きないなあと思うのである。
私の場合、なぜか同じ話を2度はしたくないのである。
一例を挙げれば、03年6月ある私立高校1年生を対象の“職業理解のための進路ガイダンス”「出版マスコミ」についての説明を40分ずつ2クラスで行なったとき、
生徒は入れ替わっているのに私は同じレジメでも少しずつ内容を変えてしゃべったものである。これも、私にはモチベーションの問題なのである。
さきに“つかみ”について触れたが、講演ではなく授業でも、似たような表現“握られる”があることを知った。 “その3「初日のあり方」/「文章基礎実習」その名のとおり、本日の授業は「文字」というキーワードを中心におき、具体的な授業内容うんぬん、 この言葉一つで「握られた。」/要は、初回の授業だったということも考え、授業で何をやったというわけでなく、皆に対して、「文字」という一つの言葉でこれから始まっていく。 文章を学ぶ上での、共通認識的なものを、上手に教えられたような気がする。(以下略)”
これなど、受け手側は同年齢でも、それぞれ個性が違うし、身勝手でもある。 どこに“標準”を持っていくか難しいところだが、私は皆もう“大人”であると見なし、少数でも毎回、聞く耳持つものが一人でもおれば、 それでよしとすることにした。もっとも「水場に馬を連れて行っても、水を飲ますことはできない」のも事実であった。
(以上、09年6月2日までの執筆)